大師は宝亀五年(七七四)六月十五日、讃岐国多度郡屏風ケ浦(現七十五番善通寺誕生院)に生まれた。父の名を佐伯直田公、母は玉依といった。大師は幼少のころより恵まれた環境の中ですごされ、学問的な高い教育を受ける機会が与えられた。そのころ大師の学問所は甲山寺(七十四番札所)や弥谷寺(七十一番札所)ともいわれ、聡明な大師は儒学をはじめ、歴史や文学などを勉強し、基礎的な力を身につけられた。また、その神童ぶりを発揮して遊ばれたのは善通寺に近い仙遊ヶ原といわれ、捨身ヶ嶽に登って心の鍛練もされたのである。やがて十二歳になって讃岐の国学(現在八十番国分寺附近)で学ばれ、延暦七年(七八八)には叔父の阿刀大足に伴なわれて上京し、長岡の都で叔父について勉学に励み、同十年(七九一)大師十八歳のとき、大学の明教道(経書科)に入学することを許された。天才的な大師は勉学に励み、周囲から将来を期待されたがあるとき出家し、名を無空と改め、やがて大学を去るのである。そのころある僧から求聞持の法を授けられ、山岳修行者に身を投じた。そして阿波の太龍岳(二十一番太龍寺)や土佐の室戸岬(二十四番最御崎寺)あるいは石鎚山等で厳しい修業を重ね、二十歳のとき和泉国槙尾山寺(西国四番札所)で得度、出家し、名を如空、後に教海から空海と改め、苦修練行の後、都へ出て南都六宗の教学を学ばれた。そして「実の如く自心を知ることによって人間のすがたそのままで仏になれる」、と説く大日経の写本を発見した。やがて入唐し、二年間の留学中に密教の第一人者といわれる青龍寺の恵果阿闍梨から、胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨の各灌頂を伝授され、密教の奥義秘事を受けつぐのである。この灌頂のとき、マンダラ中央の大日如来の上に二度も投花がおちたので遍照金剛という名がつけられたという。大師は二年間の在暦中に、多くの知識を吸収し、あらゆる分野の書物を集め、大同元年(八〇六)帰国し、翌年上京し、後に槙尾山にとどまった。真言宗開創の勅許を得たのは大同二年、つまり唐から帰国した翌年に当る。大師の教えは、現世に理想の社会を築き、人すべてがそのまま仏となって幸わせが得られるというきわめて現実的なものであった。大同四年洛西の高雄山寺に入られ、弘仁七年(八一六)大師は自身の宗教的な体験を一層深めるため天皇の許可を得て高野山に堂宇を建立した。弘仁十四年(八二三)には東寺を賜わり、密教の専門道場とした。その後、教育の普及にも力をそそがれ、綜芸種智院を立てて民衆の教育に当り、さらに満濃池の築造など社会事業でも活躍し、その他あらゆる分野にわたって豊富な知識と技術を生かして、日本文化の発展に貢献された。承和二年(八三五)三月二十一日、大師は高野山の金剛峰寺において入定した。ときに六十二歳であった。延喜二十一年(九二一)醍醐天皇は弘法大師号を贈られた。
 ところで、四国八十八ヵ所は弘仁六年(八一五)弘法大師四十二歳のときに開創された
済がその遺跡を遍歴したのがはじまりという。あるいは衛門三郎が自己の非を悟って四国の霊地をめぐったのが遍路のはじまりという。
 いずれにしても大師入定後、大師に対する信仰はまもなく起り、平安時代の末ごろには大師ゆかりの地を巡拝することがおこなわれていたのであろう。このころ、修行僧の間に四国辺地といわれる海辺の霊場を巡拝することがおこなわれ、鎌倉時代になると真言宗の僧が苦修練行をかねて大師の遺跡を巡歴したことが知られている。やがて室町期に入ると一般庶民も参加するようになり、八十八ヵ所の霊場が固定したのは室町末期から江戸初期にかけてであろう。
 八十八という数字は、八十八使の煩悩に由来するとか「米」の字を分解したことによるとか、あるいは男四十二、女三十三、子供十三の厄年を合わせたという。
 江戸時代の初期に高野山の僧真念は、四国の縁起や道程を詳細に調べ、僧雲石堂寂本に依頼して『四国遍礼霊場記』を著述させ、真念自身も軽便な案内書を著わし、人々に巡拝をすすめるなどしてその普及に努めた。この結果四国遍路は盛んになり、一般化していった。遍路は地元の四国はもとより、中国方面からが大半を占め、時代が下るにしたがって偽者や乞食、病人、社会的敗残者なども加わった。四国には接待という、独特な援助があって、あらゆる層の巡拝を容易にしたのである。
 その道程三百六十余里(約一,四四〇`)歩いて四十日から六十日ほどの日数がともなう長路の旅である。また、車でめぐっても十日ほどの旅になる。巡拝するごとに発心、修行、菩提、捏磐と一国ずつ名称がつけられ、信心の度合をはかる関所が設けられている。
 元奈良市長の鍵田忠三郎さんは四つの難病で医者から死を宣告されたが、弘法大師を頼って四国遍路に旅立ち、四国の大自然の中で難行、苦行して生死の限界をのりこえ全快している。「一切のことに関してお導きをたまわり、お蔭で四つの大病を持ち、身を投げてかかった私が、精神的にも肉体的にも、直接お大師と四国の山野の霊気に鍛えていただき少しく自信をもった」と鍵田さんは大師のおかげで健康をとり戻したことに感謝している。
 また、故人となった池田勇人元首相も大蔵省在職当時、悪性の皮膚病にかかり、遍路となって四国を巡拝し、そのおかげで難病が治り、鍵田さん同様貴重な人生観を体得している。「遍路は私が曽て実行した事であり、私の奇病が全快する機縁となったからである。今考えてみると、私のものの考え方の基本は、何かあの時の体験に負うところがあるように思う」といっている。
 遍路となり四国をめぐるのは理屈抜きの、ただ大師を慕っての素朴な信仰である。そしてへんろ道をたどる中で大師のおかげをいただき、心身の毒素が浄化されてゆく、いわば四国は大自然の病院といっても過言ではない。そして人と人とのあたたかい心のふれあいや、自然の中でいかに生き、生かされるかを遍路の体験から学び得るならば、まさに、「同行二人」大師に導かれての二人づれといえよう。
 大師は一本の金剛杖によって常に遍路を見守り、あるときはとがめ、またあるときは救いの手を差しのべ、八十八ヵ所の結願へと導いてくださるのである。大師はいつの時代にも遍路の心の中にいきておられるといえよう。

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