新居浜太鼓台の歴史
太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、現在のところ確認されておりません。地域の伝承によると、祭礼の時、神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、その起源は平安時代、あるいは鎌倉時代まで遡るといわれています。
太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸時代後期、文政年間(1818〜1830)のことで、その頃は「神輿太鼓」と書かれることが多かったのですが、時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは「太鼓」とされることが多くなってきました。
太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。
幕末から明治時代初期の太鼓台は、現在の子供太鼓台くらいの大きさしかなく、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持ちませんでした。しかし、別子銅山の開坑により産業が発展し、地域経済が発達するにつれて太鼓台を所有する複数地域の対抗意識も強まり、明治中期以降から急速に巨大化し、明治時代中期から昭和時代初期の太鼓台は、現在の太鼓台と同じくらいの大きさになり、飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、また天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。
しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも巨大化するということは、その建設費用や、また巨大な太鼓台を担ぐためのかき夫のパワーが多く必要になります。新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の二方向から発展したといえるようです。
現在では、瀬戸内沿岸にある数多い太鼓台のなかでも、150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから『男祭り』の異名をもち、毎年約30万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、全国的にも知られるようになりました。
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