西予市の祭り

夏まつり/渡江の盆踊り
8月14日
    

8月14日、暮れはじめた浜辺に盆踊りの口説き唄がひびき、
華麗な歌舞伎衣装の踊り手が歌舞伎の名場面を模した踊りを優雅に舞始めます。
何時のころからか踊られはじめたかは不詳ですが、昭和48年に渡江盆踊り保存会がつくられ、
大功記、義経千本桜、菅原伝授手習鑑、蘇我兄弟、白波五人男、その他の多くの名場面が、
歌舞伎化粧と衣装に着飾った、踊り手によって踊りつがれています。


秋祭り
町内6ヶ所の地区で行われる秋祭りをご紹介します。
御輿、牛鬼、五ツ鹿、高山宵宮の潮垢離など見ごたえ
あふれる勇壮なお祭りが各地で繰り広げられます。

“ 五鹿おどり ”
狩浜地区での五鹿おどり 高山地区での五鹿おどり
秋、収穫を前に明浜町は”祭”の鼓動が駆けめぐります。
牛鬼、五ツ鹿、角力甚句、行列、お船、お猿、天狗、大神楽、浦安の舞、神輿などなど・・・。
いろいろな祭りが津々浦々で賑やかに繰り広げられます。
中でも見物は高山宵宮の潮垢離。狩浜の牛鬼、海上渡行、急な階段を一気に懸け上るお還り。
ボルテージは一気に高まり、町全体が祭りの雰囲気に酔いしれます。

“ 牛 鬼 ”
愛媛県南予地方の祭礼でよく見られる牛鬼は、
ここ明浜町にも伝承されています。
顔は牛とも鬼ともつかない形相で、胴体は牛、
尻尾は剣をかたどった練り物の一種であり、
神輿渡御の先導を努め、悪魔払いをしてまわります。
狩浜牛鬼
高山牛鬼 田之浜牛鬼
俵津牛鬼 宮野浦子供牛鬼みこし

“ 高山宵宮の潮垢離 ”

賀茂神社の秋の大祭の宵祭りに、
数十名の若者達が海で身を清める
潮垢離の行事が今に引き継がれています。
割木を井桁に高く積み上げて明々と
”かがり”を焚き、全員が裸になって
次々と冷たい海に飛び込んでいくと
いう勇壮な儀式です。



花取り踊り
9月第1土曜日

今から350年程前、元和年間の8月5日、岡成部落は、
落雷による大火災があり、12戸のうち8戸までが焼失しました。
人々は、再びこのような災害が起こらないようにと
神仏に祈願し、この「花取り踊り」を献上したそうです

この踊りの起源は、
土佐の太刀踊りが寛永時代
(1600年前後)にお隣の
三間町に伝わり、その地方の行商人から習ったという説と、
源平時代に、平清盛の重臣で
あった足利又四郎忠綱に
からむ「歯長取り踊り」と
関係があるという説があります
【野村町無形文化財:昭和40年12月24日指定】
花取り踊り

直線2列横隊で、背の高い大太刀と
背の低い小太刀が、音頭に合わせて
軽快に勇ましく踊ります。
本来の花取り踊りは12組ですが、
小子化にともない現在は8組で行っています。
三角踊り

花取り踊りの始まる直前に前座として、
また終了後には締めとして行います。
この踊りは、鳴り物の鉦太鼓に合わせて、
3人の踊り子が3角の形で踊りまくり、
どんどん上るテンポにどこまでついていけるか、
というところに醍醐味があります



秋まつり
10月14・15・16日

ニ頭で祭りそのものを先導します
大牛は明治四年(1871年)から揚地区
小牛は明治三十年(1897年)から朴地区
から参加します
牛鬼/場地区・朴地区

明治六年(1873年)
八幡浜の日土から踊りを習ったとされます
子供甚句/屋敷地区

明治十六年(1883年)
八幡浜の五反田から踊りを習ったとされます
唐獅子/岡市地区

明治四年(1871年)
宇和の小原から踊りを
習ったとされます
ルーツは仙台地方から
五つ鹿/客地区 五つ鹿/浜地区二区

当初一体でしたが、
明治四年(1871年)揚地区、
浜地区に一体づつ出来て
三体になりました
 明治43年から明治45年に
かけての廃仏毀釈により五社
(宇都宮神社・客神社・大元神社・
一宮神社・大原神社)を国造神社に
合社されたため、以後三体の
神輿には、五神交代で乗られています
神興

昭和30年(1950年)
三区に子供神輿、七区に樽神輿が
できその後、昭和55年(1975年)に
神輿になりました
神興/浜地区三区子供

 当時の庄屋の長子が七才で
乗ったため現在もこの年齢の子が
浜地区(二区・三区)の
大正十年(1920年)頃より
ニ台になった四ツ太鼓に
四人づつ乗ります
四ツ太鼓/浜地区二区・三区