第 102 号 |
高知県「中岡慎太郎館」を訪れて |
平成18年10月14日(土)に高知県安芸郡北川村にある中岡慎太郎館を訪ねました。今年の1月に訪問して以来2度目の訪問で、四国政経塾塾生5名で出かけました。中岡慎太郎館は高知自動車道南国インターから、国道55号線を東へ進み、奈半利から国道493号線を山中へと向かった北川村にあります。前回よりも看板や案内板等が整備されていて、随分判り易くなっていました。 少し長くなりますが、中岡慎太郎の経緯についてご紹介いたします。天保9年(1838)に高知県安芸郡北川村の大庄屋の長男として生まれます。3歳になって父親から書道を学び、4歳の時には柏木村の松林寺住職禅定和尚に読書を学び、7歳にして野友村の漢方医である島村策吾を師とする島村塾で四書(※四書とは、儒学の根本経典であり、大学「身を納めることから天を納める治政に関すること」中庸「天と人間を探究する奥深な原理」論語「仁を中心とする孟子一門の教え」孟子「民生の安定、徒教による王道政治」)を学びます。毎日片道90分の道のりを徒歩で通ったのです。後に全国を飛び回る尊王攘夷論や健脚の基礎が、既にこの時から培われていました。慎太郎はとにかく勉強熱心で、14歳にして島村塾の代講を勤めるまでになっています。それだけではなく、高松順蔵の塾で南学(朱子学の一派)を学び、乗光寺で書を極めました。時の世はペリーが浦賀に来航するなど諸外国から多くの艦がやって来た頃、土佐藩は藩校野田学館を設置し、向学心に燃える慎太郎は直に17歳の時に入学しています。ここで、武市瑞山を師とし剣術や経史、南学等を学びます。20歳まで、とにかく勉学に励んでいましたが、父の病気の知らせを受け大庄屋の見習いとなります。慎太郎が大庄屋の見習いとなった安政元年(1854)は、大地震や疫病により不作が続き、中岡家の山林や田畑を担保に近村の富豪から米や麦を借り入れ、その上藩に迫り800両もの借り入れをしています。この時代大庄屋とは言えども身分は決して高くなく、藩に借り入れを申し込むなど至難の業でありました。慎太郎は植林や田畑の開墾や耕作指導も行い、作物を貯蔵するための共同倉庫を建設、北川村の特産である「ゆず」を庭木に植えるなどの指導もしています。「ゆず」は当時貴重品であった塩の代用品として考案されました。慎太郎は大庄屋としてもその才能を遺憾なく発揮していくのです。 文久元年(1861)慎太郎24歳の時に、武市半平太を首領とする土佐勤王党盟約に参加し、192名のうち17番目に血判します。三条実美が江戸へ下る時に藩主が護衛につくことになり、伍長として任にあたり、この時に長州の久坂玄瑞、水戸藩士川瀬教文らと面会しています。文久3年(1863)慎太郎26歳の時、長州藩が会津と薩摩藩の結託により京都から追い出される京都政変がおこります。三条実美の使者として土佐の武市瑞山を尋ねるも瑞山は投獄され、慎太郎にも逮捕の命が出されており、脱藩することとなり、長州に逃れ尊攘派浪士たちの指導者となりました。慎太郎は大庄屋として愛すべきふるさとや民と共に生きる道と、江戸・京都を経て生々しく動く政治の現実に触れ、多くの志士との中で、大道への想いに駆られ、心は揺れていましたが、多くの事件が慎太郎を大道の道へと導いていくこととなりました。この時、国を捨て名を変え、信じる道を歩み続ける決意をするのです。 文久4年(1864)慎太郎27歳の時、長州藩高杉晋作・久坂玄瑞らと活動を共にし、中村半次郎などの薩摩の尊攘派と交わり、倒幕に向けての薩長和解による薩長同盟へと邁進することとなります。長州に身を寄せているものは勝手な往来が出来ない中を、名前を「寺石貫夫」と変えて、薩摩の西郷と幕府の長州征伐について面会します。この西郷との面談で「薩長連合」の種がまかれ、馬関で西郷と高杉を面会させました。長州藩は薩摩藩に対して、京都政変による仇である強い恨みがありました。しかし、西郷や筑前藩士有志たちには長州藩を窮地から救い、五卿の安全保護を考えている真意を確かめた慎太郎は、「天下を興さんものは、必ず薩長両藩なるべし」と確信し、単なる尊王攘夷論者ではなく、薩長連合という主題に向かって、ありとあらゆる糸口を探って行きました。西郷にはうるさがれ、木戸には怒られ、同志からは白い目で見られる中、それでも全国を駆け回りました。慶応元年(1865)慎太郎28歳のとき、「時勢論」を書きます。何のための攘夷か、何のための倒幕か、例を古今に求め、薩長政権を、この「時勢論」で自信を持って断言しています。この時西郷らと面会し、坂本龍馬と共に薩長和解の策を練ります。そして慶応2年(1866)1月21日京都の薩摩藩屋敷にて、西郷隆盛・小松帯刀・木戸孝充と会談、倒幕の薩長同盟が実現しました。この時坂本龍馬が同盟書に裏書をしたことにより、薩長同盟の立役者として注目を浴びることになったのですが、資料館で見るからには慎太郎の功績なくしては、決して実現しなかったと思われます。もし、慎太郎がいなければ後の歴史にも大きな影響があったのではないでしょうか?!近代文明の幕開けも随分遅れていたかも知れません。慶応3年(1867)慎太郎30歳の時、坂本龍馬の下宿である近江屋で会談中に、幕府見廻組佐々木只三郎ら7人の刺客に襲撃され、その生涯を閉じました。坂本龍馬は倒幕に対しては慎重派であり、戦ではなく話し合いをもって事にあたることを主張していました。慎太郎は倒幕に対して武力行使も止む得ぬ覚悟で進めるべく主張しています。今で言う龍馬は「ハト派」慎太郎は「タカ派」といったところではないかと思いますが、知れば知るほど、塾頭が主張するように、幕府が最も恐れていたのは坂本龍馬ではなく、「中岡慎太郎」であったのでは?!と言うのもうなずけます。歴史で学んだ薩長同盟に、これ程までに自分の生涯を捧げ、真に志を持って事に当たった人物がいたことに改めて感慨深い思いを巡らせました。 慎太郎が薩長連合の主張のために歩いた距離を資料館で見ることが出来ます。文久2年(1862)慎太郎25歳の時910Km、文久3年(1863)3110Km、元治元年(1864)2300Km、慶応元年(1865)5891Km、慶応3年(1866)2023Kmとなっています。多いときには一日90Km以上も徒歩で歩いています。それも只歩くだけではなく、同志を説得しながらの旅です。単なる健脚の持ち主だけではなく、真に志をもって事にあたる大道に生きた人であったのです。幼いころより学問に励み、剣を磨き、民を想い、国を思い、文武両道に生きた人なのです。 現在では車や新幹線、飛行機など様々な交通機関があります。慎太郎が生きた時代は、まさに自分の足で歩き、脱藩により命を常に狙われ、正に命がけの業であったのです。今では一日に90Kmくらい車で直に行き来できますし、命を狙われる心配も先ずありません。それがゆえに命がけで事に当たる事が出来なくなっているのではないでしょうか。慎太郎のようにまで行かないにせよ、せめて自分の志や目標に向かって進む時は、命をも賭ける思いで、事に当たることを教えられます。中岡慎太郎の精神を通して、自分自身も常に向上心を持ち、人を尊敬し、そして謙虚に自己犠牲の精神を見直す必要を再度痛感致しました。皆さんも是非一度、高知県安芸郡北川村にある中岡慎太郎館を訪ねて見てください。自分の思っている歴史観と違った一面を知る事が出来ると思います。 |
平成18年10月14日 |
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