第 111 号
高知県立坂本龍馬記念館
 12月16日久しぶりの坂本龍馬館訪問です。前回訪問した時にも橋本塾長に時間を取ってもらい案内をして頂いたのですが、今回も橋本塾長が忙しい中時間を取ってくさり、全国に龍馬会を作った話、高知空港を龍馬空港に改名した話等、龍馬を全国にしらしめる為に起こした行動の大切さや、現在は日本ウォーキング協会と話をつけ、愛媛県で215キロをウォーキングしようと全国に呼びかけ歩いている記事が愛媛新聞に載った事など一時間程話して下さいました。
 その話の中で、ただ歩くのではなく、ウォーキングをしながら町の文化,伝統の勉強をしながら地域活性化をいかに加えるかという、今後私達の活動にも生かせるお話をしてくれました。橋本塾長との話の後、記念館に入り、坂本龍馬の生い立ちから日本の為に活動したかを詳しく説明をして頂きました。

        


 記念館だけのつもりだった私は、よりによってこの日はブーツを履いており、足が痛かったです、というのも、大和田塾頭が記念館の前に浦戸城後地の探索をと突然言い出し、探索に向う事になりました。 私は浦戸城という名前も初めて聞きどんな歴史が有ったのかも知りませんでした。大和田塾頭の話によると、浦戸城は長曽我部元親が父祖伝来の岡豊城を廃し、大高坂(現高知城)に新城を築き始めるが治水工事に失敗、浦戸へ城地を替え、浦戸城を完成させた。その後、関ヶ原、大阪の両陣に敗れた長曽我部盛親に代わり、山内一豊がこの城に入ったそうです。その時、長曽我部氏の遺臣たちが城の引き渡しを拒み、盛親に土佐半国、せめて土佐2郡だけでも賜りたいと、50日にわたって籠城し、ついに城を枕に273人が討ち死にしたお城だそうです。

 橋本塾長の案内の下、山内一豊が高知制定の邪魔で有った一領具足達をだまし討ちした場所、敵が攻めてきた時、それを防ぐ為の掘り切りなど見て周り、最後に記念館を建てた時、その場所に首切りの洗い場(井戸)があったらしく、橋本塾長が記念館の隅に作った井戸を見てまわりました。その時、又も大和田塾頭が自分のカバンの中から方位磁石を取り出し、表鬼門や裏鬼門など調べだし、井戸を移動させた場所が、いい場所か悪い場所か調べたり、結果井戸の場所にしても、記念館の入り口など方位的に何の問題もない事を橋本塾長に話をしていました。
(橋本塾長は良かった・よかったと・・・胸をなで下ろしていた。また大和田塾頭は方位学の事をなぜ詳しいのだろう・・・それに何時も方位磁石を持ち歩いているのだろうか・・・?)

 何時も感じる事なのですが、橋本塾長の話の重み(行動し体験したから言える事)、大和田塾頭の物知り(何時勉強しそこへ行っているのか解らない)二人に共通して言える事は、行動し自分で体験して人に教える力が有る事だと思います。
 そんな二人から何時も勉強出来る私達も早く二人に追いつき追い越すことは無理ですが、努力と行動力を身に付ける事を一日とも忘れずに日々すごしたいものです。

 そんな塾長と塾頭を改めて尊敬した一日でした。

平成18年12月16日
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