第 113 号
賀川豊彦氏について
 1月の偉人館巡りがまだ決まっていなかったのを知り、私はネットで調べる事にしました。色々と四国内での偉人さんを見ていると、目を引く方がいました。その方が、賀川豊彦氏でした。その方の思想の友愛・互助・平和の言葉の意味・考えに強く心を打たれました。

 2002年3月21日に、賀川豊彦記念館が開館し、6年有余にわたる県内外の団体・企業・個人の募金による浄財によって建設されたそうです。

 賀川豊彦氏は、1888年(明治21年)7月10日に神戸市で生まれましたが、幼くして両親に先立たれ、4歳の時、父の郷里徳島県の板野に引き取られ、幼年期・少年期を過ごしました。英語を勉強する目的でキリスト教に行き、そこで、ローガン・マヤスという2人のアメリカ人宣教師と出会いました。この出会いこそがのちの賀川豊彦氏の功績につながっていると私は思います。
 1905年、明治学院高等学部神学科に入学、当時国内有数の洋書を誇る図書館の、宗教・哲学・社会科学・自然科学・幅広くの本を読破したそうです。(私には気が遠くなるようなことを・・・、凄い!) しかし、やはり過度の勉強と苦悩が重なり、肺結核にむしばまれて行きました。
 1907年、豊橋市の協会に応援に行った際に長尾巻という牧師との出会いで、路傍伝道をし、その過労で肺壊疽になりました。その病気はひどく危篤状態になり、医者も匙を投げるほどでした。しかし周りの励まし、献身的な看護、生きていなければならない使命が回復へとつながった、この時、豊彦氏は医者や薬が病気を治すのでなく、ただ補足的な役目で、病気そのものは人間の身体自体が治すのだ。と伝えている。その後、神戸でスラムに入り、貧民救済と伝道を続け、1911年伝道師の准允を受けました。その後、日本の改革を求める民衆の為に先頭にたち、労働・農民運動・普通選挙運動に取り組み、反戦運動にも立ち上がりました。この功績は今もなお生きています。
 人のために生きる、自分の身を削ってでも人を助ける心、賀川豊彦氏は、人との出会いの中で一番感化受けたのは長尾巻牧師である。世話になったと学んだのとは違う、世話になったのは、西洋の宣教師だが学んだのは長尾巻である。日本にこのような伝道師が出た事を神に感謝すると言っています。

 私も人に何をしてあげられるでしょうか?困っている人に手を差し伸べてあげられるでしょうか?豊彦氏はボランティアの言葉の名付け親です。
 私は大和田塾頭に本当のボランティアとは、10対0であると教えられました。10対0のボランティア、本当にそうかもしれません。しかし、なかなか出来る事ではありません。皆さんは困っている人が目の前にいたら、手を差し伸べる事が出来ますか?自分の身を削ってでも助ける事が出来ますか?私は出来ないかもしれない、でも少しでも近づけるように努力したい、その為にも、これから政経塾で学んで行きたい。その事を深く思う今日この頃であります。
平成19年1月13日
目次へ