第 115 号
賀川豊彦記念館&大塚国際美術館
 平成19年を迎え、今年最初の偉人館巡りです。昨年12月末に、西村さんが入塾しました。今までの塾の活動や偉人館巡り等の話の中で、西村さんが塾の活動や他の塾生の記事などを読み、自分なりにネットで偉人を検索し賀川豊彦記念館を訪問しませんか?と提案があり、1月の偉人館巡りは、賀川豊彦記念館・大塚国際美術館に決定しました。

 1月13日、政経塾を10時出発し徳島県鳴門市に向いました。今までの偉人館巡りは、どちらかと言えば幕末に活躍した人達(坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助・吉田松陰・京都の偉人館巡り等)が多かったのですが、賀川豊彦氏について知らなかった私は、今回も幕末に活躍した人かな?と思い資料館に入りました。
 賀川豊彦氏は「友愛・互助・平和」をその時代を最も重要な課題に、真正面から取り組み、常に社会的弱者の立場に立って行動した方です。

 1888(明治21)年、賀川豊彦氏は神戸で海運業を営む賀川純一と益栄(本名菅生かめ)の次男として神戸に生まれました。幼くして4歳の時に父・母を相次いで病気で亡くし、豊彦氏は当時の板野郡堀江村、現在の鳴門市大麻町東馬詰の父親の実家に引き取られ孤独な少年時代を過ごします。家族に反対されながらも明治大学院高等部神学予科に入学。当時の明治学院には、国内有数の洋書の蔵書数を誇る図書館があり、授業に満足できなかった賀川氏は、その蔵書を全て読む決心で猛烈な読書に明け暮れて、宗教・哲学・社会科学・自然科学など幅広い分野の本を読破していった。その過度の勉学と人生の苦悩が重なって、肺結核に深くむしばまれていました。
 1907(明治40)年3月、明治学院人学予科2年を終了しマヤス師が教鞭をとることになった新設の神戸神学校に転校。賀川豊彦氏の生い立ちについては、他の塾生も書いてあるので、そちらも参考にして頂くとして・・・。賀川豊彦氏は人々の暮らしを良くする為に労働運動・農民運動・協同組合運動・平和運動など、又スラム街や関東大震災の被災地に自ら飛び込んでの救済活動など。
 大正12年9月1日、関東大震災では賀川氏はまず義捐金を集めるために、地元の大坂・神戸をはじめ中国・四国・九州まで駆け巡り、1ヶ月足らずの間に後援会を約40回開き7,500円(現在の4〜5千万円)を集めたそうです。賀川は東京本所にテントを張り、ボランテイアの人々を組織して被災者のために献身的に尽くし、その他、賀川氏は千数百冊の英書を売って作った1,500円とイエス団の基本金の中から5,000円も合わせて義捐金としたそうです。この賀川氏の活動からボランティアの先駆者でもあると言われています。又、協同組合運動では、産業組合や消費組合を再生させようと1945(昭和20)年11月、「日本協同組合同盟」を結成し、賀川氏が会長に就任しました。生活協同組合関係者だけでなく、農林水産業・医療協同組合関係者のほか学者も集まり、この活動が農協法・生協法などの成立に力を及ぼし、農協・生協などの組織を生みました。1951(昭和26)年には「日本生活協同組合連合会」を創立し、賀川氏は会長となりました。この組織はICA(国際協同組合同盟)に加盟して世界とつながりました。まさに賀川氏は協同組合再生の父であると資料にありました。

       

 賀川豊彦氏の様々な活動を資料から私なりに見ましたが、私にこんな事が出来るかなという事ばかりで驚きの連続でした。今まで勉強してきた偉人は全員と言って良いほど、自分をギリギリの所まで追い込んで行動を起こし活路を切り開いているということです。賀川豊彦氏も肺結核でありながらも勉学に励み、本を出版しスラム街での生活やキリストの教えを伝え世界平和を願い懸命に命を掛け、人助け(当時の貧民)に人生をついやした精神力、自分の事を後回しにして、まず廻りの人の為に何をするかを考え行動した事。まず自分と重ねて考えてみると、人の為に賀川氏のような行動が取れるだろうかと考えてみると・・・言葉が出ません、出ないのが今の自分です。
 なぜなら、今まで偉人館巡りでいろんな事を学び、その時感じた事を書いた今までの自分の記事の中に、「損得を考えず、人を想う心を持っているだろうか?そう考えてみると自分自身がもっともっと変わらなければならないと考えさせられました。」と書いています、自分を考えず人の為に何が出来るかと考えた時、まず、人を想う心を持たなければならないと私は思います。人を想う心を持っていれば、自分を考えず自然に自分が人の為に行動できるのではないでしょうか?と思います。人は自分の事だけしか考えられない人がたくさんいます、人の為に、又地域の為に賀川氏のような行動が取れるだろうかと考えてみると、言葉が出ないのは、自分を変える事が先だというところに戻ってしまうからです。政経塾の「地域から日本を変える」故松下幸之助(松下電器の創始者)の教えを引き継ぎ、活動を行なっていますが、日本を変えるには地域から、地域を変えるには自分の周り、周りを変えるには自分から、と学んでいます。
 賀川氏はその時代を最も重要な課題に、真正面から取り組み、常に社会的弱者の立場に立って行動した人、「人・地域・社会」の為に考え立ち上がった賀川氏ですが、独り善がりの人物だったとしたら、立ち上がって行動したところで一人では何もできていなかっただろうと思う、賀川氏は人を想う心があり、周りを変えることが出来たから、賀川氏の周りに人が集まり様々な運動や活動ができたのだと思う。
 幕末に活躍した偉人の人や、賀川氏のように私には知識も行動力もなく、自分にどのくらいの時間が必要になるか分かりませんが、これから先で、自分を振り返った時に自分が変わり、些細な事でもいい、人の為・地域の為に活動できる人間になりたいと思っています。

 次に、大塚国際美術館を訪問しましたが、私は2回目の訪問でした。1回目に訪問した時は、美術館がとても広く見て回るのがやっとでした。今回絵を鑑賞していると、同行していた石川さんが「絵を見ているとその時代が分かりますね」と言いました。古来は当時の感情や生活を石や壁などに残しています。石川さんの言葉を気にしながら見てみると、確かに一つひとつの絵には、当時の服装や背景・生活が分かります。美術品の価値・良さなど分からないですが、様々な人が同じ人物を描いていても、一人の人物が全く違った顔を持っていて、表情からでも一つひとつの絵から伝わってくるものの違いが分かりました。例えば、一人の人物画を見ても、笑顔一つから感じ伝わってくる笑顔が、左の絵の笑顔は楽しさの表情の笑顔しか感じられなくて、右の絵の笑顔は、笑っている表情だけどそこには悲しさが感じられる絵に見えたり・・・。絵を見て伝わってきた感じを表現するのに表現の仕方が旨く言葉になりませんが、今回美術品を見て回って、絵というものの素晴らしさを感じ取れた事が良かったと思います。ただ残念なのが、館内を見て回っていると、閉館時間の館内放送があり、全部見て回れませんでした、しかし、私は前回行った時には見ることが出来たのですが、システィーナ・ホールにある、ミケランジェロが描いた祭壇壁画の「最後の審判」、天井画「天地創造」が3月末まで既存の建物に取り付け施行を行なっており、今回は見る事が出来なかったので、また次回4月以降鑑賞しに行こうと言う話しもあって、今回見ることの出来なかった美術品・新しく完成した祭壇壁画の「最後の審判」、天井画「天地創造」をじっくり鑑賞したいと思います。

 最後に、今回の賀川豊彦記念館・大塚国際美術館訪問の提案を出してくれた、西村さんに感謝です、今回の訪問により賀川氏という人物を知る事ができ、人として一番何が大切なのか、行動するのに何が大切なのかと言う事を改めて考える事(自分なりにです)が出来ました。有難う御座いました。
平成19年1月13日
目次へ