さかのぼること約10数年前、ファミコンというゲーム機が突如現れ、ちまたを大いに賑わせたのを、今でも昨日のように思い出すことができる。当時、世間の子供たちは、その何とも言えぬ魅力に引き寄せられ、日々、テレビの前でコントローラーを握り締め、親を尻目にゲームに熱中していたものだった。ちなみに、私もその一人であったように思う。そんなこんなで時代は進み、現在、ゲーム産業は日本経済の一角をになうまでに発展した。
そこで今回のテーマだが、ファミコン全般でいうところの『ハード』はゲーム機本体であり『ソフト』はゲームカセットであろう。つまり『目的』(ゲームを楽しむ)を果たす為に必要な『形式』(ゲーム機本体)であり『内容』(ゲームカセット)ということになる。
先に“ゲーム産業は経済の一角をになうまでに発展した”と書いたが、そのメカニズムを『ハードとソフト』の関係から少し考えてみる。まずは、様々な社会需要が存在する中、供給者側より、ファミコンという『ハード』が市場に投じられた。しかしながら当初は、それはどういう物か、何ができるのか、どう使うのかといった具合に感じられ、市場においても現在のような爆発的反応はなかった。その後、ジワジワと市場を拡大したものの、なにかパンチに欠けていた。そんな中、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったように、当時は斬新な『ソフト』が他の会社によって開発された。そして、それらは一大ブームを巻き起こし、更には、過去に例のない程のメガヒットを叩き出してしまった。『ソフト』販売量にともない、当然ながら『ハード』(ゲーム機本体)も売れた。その後『ソフト』は量、質共に、発展を遂げることとなり『ハード』であるファミコン本体が能力を問われだし、更に進化したスーパーファミコンなる『ハード』が開発された。時代は進み、現在はプレイステイション2が『ハード』として市場に出回っている。そして、その能力をフルに生かすべく、日々、新たな『ソフト』が開発されている。
こんな言葉をよく聞く。「世間に取り残されない為にもパソコンをしよう」・・・。少し変だと思う。パソコンというのは、何かの『目的』が発生した場合に、それを楽に実現しようと生み出された一つの『ハード』(形式)であり、また、それは『ソフト』(内容)をともなうことによって、やっと、目的を果たす為の一つの手段となり得る。例を挙げてみる。
報告書を提出せよ、との指示が出た。手書きは何かと面倒なので、パソコンに向かい合い、ワープロソフトを立ち上げた。必要事項を打ち込み、報告書をまとめ上げ、提出した。
この場合、『目的』は“報告書を提出する”であり、それを実現させる一つの手段として『ハード』(形式)が“パソコン”『ソフト』(内容)が“ワープロソフト”になろう。更に、より楽に目的を果たす為には、『ハードとソフト』双方の充実が不可欠であろう。つまり、パソコンの機能とワープロソフトの使い易さ、双方の充実を図る、ということになる。ちなみに、このメカニズムは、先に触れた“ファミコン云々”に通じるところがあると考える。
以上、この一連の流れ(ハードとソフト、目的に対する形式と内容)は、多少の支流を生じながらも、何らかの因果関係によって、一本の大きな流れとして、脈々と次世代に受け継がれていると考えられる。以下、これらを踏まえた上で、諸々の社会問題について考察してみようと思う。
『はこもの』という言葉を聞いたことがあると思う。そもそもは、タンスや鞄などの意味で用いられていたものらしく、その意味は“何かを収める為の外枠”等であったろう。過去から現在にかけて、それらは、市場経済の中、一種、自己完結的な美しさや魅力、更には、独自のアイデンティティーを追求しつつも、それと同時に、客観的視野の下、時代背景に応じて使う側の利便性をも追求し続けてきた。それもそのはずで、使う側にとって不必要な物は『売れない』のである。
ところで本題だが『はこもの』には、公共建築施設という、もう一つの意味(普通はこちらが一般的)がある。例えば、最近話題になった首相官邸だが、これも、良くも悪くも一つの『はこもの』であろう。
最近、各市町村単位で、市民会館や文化センターなどが建設、改修されようとしている。これは、現在、日本各地で巻き起こっている“合併ブーム”が関係していると思われるのだが、各地域性もあることなので“なぜ、そうなったのか”を、まとめて追求することは非常に困難である。しかしながら一つだけ言えることは“合併特例債のうまみ”が、現在の合併ブーム、更には、市民会館や文化センターの建設工事案、改修工事案の中で、大きな比重を占めているのではないかということである。そして、この合併特例債というものが曲者であることは衆知の事実であろうが、もし知らない方がおられるのなら、一度、調べてみることをお勧めする。
はっきり言うが、全ての物事はそれそのものが自己完結してしまうような単純な物ではなく様々な因果関係の下、その大小に関わらず、それぞれが社会的役割を担っているのである。また、それが公共事業に関係する物であるのならば、その意味は大きいといえるであろう。
現在、全ての人は、何らかの『形式』に縛られながら生きている。それは、刑法であったり、道交法であったり、税法であったり、細かく言えば、各企業約款であったり、生徒会規則であったりする。大半の人は、社会通念上、それほど常軌を逸した行動をとることがないので、めったなことでは『形式』に直面することがなく、自らが縛られながら生きているという自覚を得ないままに、何事もなく、個々の日常に暮らしている。
少し考えていただきたい。私は、あえて『形式』という言葉を使った。もちろん、これは、法律上、また、社会通念上の縛り、という意味であるのだが、それだけではなく“目的に対する形式と内容”での『形式』(ハード)としても使っている。先の、ファミコン本体であり、パソコンそのものである。つまり、何が言いたいのかというと、世の中に存在する全ての縛りは、それだけで自己完結するような単純なものではなく、何らかの『目的』に対する一つの『形式』であり、それは『内容』を伴うことによって、やっと一つの『手段』となり得るのである。もちろん、ここで言う『内容』(ソフト)とは、『人』そのものである。
平成14年9月
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