第 169 号
高知県北川村「中岡慎太郎館」訪問
 平成21年2月14日()に四国政経塾恒例の偉人館めぐり事業を実施し、高知県北川村にある「中岡慎太郎館」を訪ねました。「中岡慎太郎館」は、四国政経塾ではすっかり恒例となりましたが、新しい塾生の方々や仲間が増える度に、一度は訪れる場所であります。昨年暮れから深川さん・江口さんなどが新しく塾生として勉強会に参加されていることもあり、この度の研修が企画されました。この日は2月にしては異常に暖かい気温20度という好天に恵まれ、少し汗ばむ陽気で梅の花も一機に咲き誇り、とても気持ちの良い一日でした。私は「中岡慎太郎館」へは平成18年に2度訪問しております。あれからほぼ3年の月日が流れましたが、以前の原稿を読み直し、あの時に何を感じていたのか振り返って見ました。何はともあれ、3年前に同じ場所に行き、何を自分が思い感じていたかを知ることが出来るという意味では、何かと文章が苦手な私ですが、先ずは塾報を書き残すことの大切さを改めて感じた次第であります。今までの私なら3年前の自分の考えなんて思い返すことすらなかったと思いますから。「自分の思いや考えにブレがないだろうか?!あの時の熱い思いは今も引き継がれているだろうか?!」など、記憶を辿る貴重な記録が残っていることに、「自分の歴史を確かに一歩一歩刻んでいるんだなぁ」と自己満足に浸っております。

 さて、中岡慎太郎館への道程や中岡慎太郎の偉業については、以前の塾報で随分詳しく書きましたので、今回の記事では割愛させて頂きます。(詳細は塾報102号等をご参照ください。)以前は中岡慎太郎が歴史的に何を成したのか?!を中心に見てきましたが、今回は中岡慎太郎の人間像のようなものを探ってみたいと思い、有名な薩長同盟に至るまでの幼少時代や庄屋時代の慎太郎の歴史的背景を中心に勉強させていただきました。
 慎太郎(当時の名は光次)は、4歳の誕生日に父親からこのように言われています。「光次はこれから大庄屋の職を継ぎ、13か村千何百人もの村の頭に立って働かねばならない。今よりおなご衆は一切この子の世話を焼くでない!光次の躾は私がやる。」いかがでしょう?4歳の我が子と言えば可愛い盛りです。親も子供もまだまだ甘えたい盛りではないでしょうか?!父親は厳格で実直な人であり、慎太郎に愛情を持ってあえて厳しく一人で禅寺の松林寺へ通わせ、住職の禅定和尚に読み書きを学ばせました。また、7歳にして野友村漢方医である島村策吾を師とする島村塾で※四書を学びます。毎日片道90分の道のりを徒歩で一日も欠かさず通ったそうです。後に全国を飛び回る尊王攘夷論や健脚の基礎が、既にこの時から培われており、この時点で常人とは掛け離れた偉人中岡慎太郎像が垣間見られます。

※四書とは儒学の根本経典。大学「身を納めることから天を納める治政に関すること」中庸「天と人間を探究する奥深な原理」論語「仁を中心とする孟子一門の教え」孟子「民生の安定、徒教による王道政治」からなる。)

 つい最近、上甲晃(松下政経塾初代塾頭)先生の講演が高松市でありまして、その時に上甲先生が話された内容に「自立するために青年塾では愛情を持って、不便・不自由・不親切を与えています。」とお話されていたことが、ふと頭に浮びました。慎太郎が過ごしたこの時代の状況こそが正にそれと同じことが言えるのではと思います。当時は、そうせざるを得ないと言ってしまえばそれまでですが、あえて厳しい勉学に励む必要も無かったのではないでしょうか?あくまで自己解釈ですが、父の教え、それを素直に受け入れた慎太郎、そして師と呼ばれた人々による真理の教え等が、この時代の若者に志士の魂を宿らせたのではないかと思いました。私は教育者ではありませんから、間違っているかも知れませんが、真の教育の原点がここにあるのではないかと思いました。
 また、慎太郎が庄屋時代のエピソードからも考えさせられることがありました。西谷村「宗ノ上」に浜渦藤四郎なる富農がいて、藩有林の払い下げを願いました。その際に藤四郎は慣例どおり実際より狭小に申告して大きな山林を手に入れようとしました。しかし、藩吏が来て実地を測量し違法がばれて、藤四郎を罰そうとしたそうです。それを聞いた慎太郎が条理を尽くして藩吏を説得しようとしましたが受け入れられない。その時、慎太郎は藩吏に「民を除きて君主なく、民なくして国はない。まして況や民の利益を度外して、国法のある可き理由はない。」さらに藤四郎には「今に俺がこの辺り一帯の山をみな払い下げてやる。膝詰めで話をつけてやるから。」となだめて、藩吏は逃げるかのごとく立ち去ったと言います。慎太郎は、藩吏に逆うなどとは考えも出来ない時代に、古い慣習を打破し、身分の違いのない誰とでも自由に話が出来る時代を既に予感していたのです。確かに藤四郎の違法な行為もありましたが、慎太郎はもっと大きな視野で物事を捉えていました。それ故に藩吏も慎太郎に圧倒され、立ち去るように逃げ帰ったのでしょう。現代に置き換えるならば「国民を除いて国会はなく、国民なくして国家はない。まして国民の利益を度外して、国家の法律がある理由はない!」というところでしょうか?!政治を司る人や我々国民一人ひとりが、今一度この視点に立って今の時代を見つめるならば、人の心の問題や不況問題などにも立ち向かっていけるヒントがあるのではないかと思います。
 決意という視点から、当時の脱藩について記してみます。当時においては、脱藩はそれ自体が一つの変革行動であり、かつ多大の辛苦と危険を覚悟しなければならないものでした。小説などでは「自由への跳躍」式にさばさばと描かれたりしておりますが、現代人が組織・団体から退団、脱退、脱党するのとは全く異なるものでした。藩からは必ず追捕の手が伸び、常に命を狙われることとなり、本人だけでなく親兄弟に至るまでも罰を受けなければなりません。一度脱藩すれば二・三の例外を除いては、革命が成就するまで、決して家郷へは帰れませんでした。維新まで生き延びた志士は決して多くはなく「壮士一度去りてまた帰らず」です。この記述を読みながら自分自身の決意に目を向けたとき、いつものごとく沸々とした何とも言えないもどかしさを感じずにはいらないのです。今の時代めったに命を狙われることもありません。また政治の世界では、離党したり復党したりと何を持って政治をリードしようとしているのか分かり難いことが一杯行われています。それはさて置き、自分自身の決意を改めて思い返したとき、今一度自分が置かれている立場や現状に決意を持って事に当たっているだろうか?・・・・とても考えさせられています。見識も経験も知識も行動力も未熟な自分には直ぐに答えの出るものではないでしょう。しかし、現状を見たときの自分の未熟さと同時に新たな学習意欲が湧いてくるのです。そういう意味でこの場所は、何度訪れても新鮮な気持ちにさせてくれる私達政経塾の聖域だと思っています。
 維新の魁となる薩長同盟は多くの志士達によって成し遂げられました。その表舞台にたった坂本龍馬は司馬遼太郎さんの歴史小説でも有名になりました。龍馬無くして成し得なかったことも事実だと思います。しかし、龍馬は「人は利で動く」と言い、慎太郎は「人は儀で動く」と言っております。この2つの思いがあってこそ、維新の一歩が踏み出されたことは紛れも無い事実でしょう。大政奉還後、状況の変化が進まない世の中を憂い、龍馬と慎太郎のやり取りを見ていると、2人の意見の相違の中にその考え方を知ることが出来ます。どちらが正しいとか間違っていると言う問題ではありません。どちらも必要だったのです。しかし、その影で多くの志士たちの犠牲の上に、現代文明の一歩が確かに踏み出されていったのです。龍馬や慎太郎に色々な歴史があったように、無名の志士たちにも本来語り継ぐべき、多くの物語があったに違いありません。必要なのは混迷の時代に多くの若き志士たちが立ち上がったように、現代人にも既に迎えている新しい混迷の時代に、変革に向けた熱い思いを持った、多くの青年達の行動が待ち望まれているのだと思います。その一役を担うために私たち四国政経塾も小さな一歩を歩んでいるのだと思った貴重な1日でありました。
平成21年2月14日
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