第 175 号
坂本龍馬記念館・自由民権記念館訪問
 3月14日、坂本龍馬・自由民権記念館を訪問しました。
 偉人館巡りや姉妹塾である韓国・機会の学塾の方々が来日した時などあわせると、両館とも何度か訪問しています。その度、塾報の方で塾生が記事を書いてあります。

 龍馬については、龍馬の偉大さ・魅力など小説や映画・漫画・TVドラマや舞台などで、これだけ注目されていれば国民的人気を誇っていて誰もが知っていると思います。私も何度か龍馬記念館を訪問していますが、坂本龍馬は、天保6年1月3日、土佐に生まれ、土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動。龍馬は偉大な人物ですが龍馬の成長に多大な影響をあたえる人物がいました。その人物とは、龍馬の3歳年上の姉「乙女(おとめ)」でした。

 坂本乙女、土佐藩郷士「坂本八平と幸」の三女として生まれ、剣術・馬術・弓術・水泳・武芸など、その他、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸と学び文武両道の人物だったそうですが、ただ、料理・裁縫が苦手のようでした。また乙女は、身長5尺8寸(約174cm)、体重30貫(約112kg)、現代に存在する人物としても大柄な女性ですが、当時でももちろん大柄で乙女のあだ名は、「坂本のお仁王様」と言われていたそうです。26・7歳の頃、本丁筋二丁目の藩医岡上樹庵と結婚し、一男一女(赦太郎・菊栄)をさずかりましたが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で1867年に離婚して坂本家に帰っています。晩年は、養子の坂本直寛と共に暮らし、1879年壊血病にかかり死去。コレラ感染を恐れて野菜を食べなかったことがたたったからだと言われています。乙女が何故龍馬の成長に多大な影響をあたえたかと言うと、母親(幸)が、1846年に亡くなり乙女が龍馬の母親代わりを務めていたと言われています。幼少時代の龍馬は、泣き虫で落ちこぼれと言われ、楠山庄助塾でもできの悪さですぐに退塾させられたと言われています。乙女はそんな龍馬に書道や剣術など教えており、泳ぐこともできない龍馬には、腰を縄で結び反対の縄の先を竹竿に結びつけ、川に投げ入れ特訓などもしていました。又彼が当時患っていた夜尿症を治した事もあったと言われています。泣き虫で落ちこぼれだった龍馬は乙女の教育により変りました。また龍馬が送った乙女宛の手紙は20通近く残されており、龍馬の理解者として、相談に乗ったり励ましたりしたと言われていましたが、龍馬の妻おりょうとは不仲だったようで、龍馬暗殺後乙女の下に身を寄せたが程なく乙女の下を去り各地を放浪したそうです。さて、なぜ今回龍馬の姉乙女に注目したか・・・。乙女は多分これほどまでに龍馬が偉大な人物になるとは思っていなかっただろう・・・?ただ泣き虫で落ちこぼれでは先行きだめだと、本来なら考えてみると、長男・長女が下の面倒を見るのが当り前かと思うのですが、文武両道の人物だった乙女が母親代わりとなり教育に励んだのだと思う、乙女は母親が死なずに生きていても、龍馬への教育をしていたのではないかと私は思う。自分の考え方が正しいとは思っていません、ですが現代に欠けているのは昔の人たちのような家族に対する思いが欠けていて、子への教育、家族のありかたなど違った方向で進んでいるように思えます、子を思い、兄弟を思い、親への感謝、家族への思い、家庭内で会話や笑顔の絶えない家族もありますが、そうでない家族が年々増えてきているように思えます。親が子を、子が親をという犯罪などと考えられない世の中になってしまっています。

 乙女のように家族を思い家庭を守る精神が現代人には欠落していっているように思います。
 私たち、政経塾塾生も人としての生き方、仲間の大切さを勉強し、先ず自分を成長さし、自分の家族にも政経塾の教えを理解してもらい、楽しい家庭づくりをし、地域を変える原動力になるよう、日々学んでいます。
平成21年3月14日
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