第 182 号
京都・大阪訪問
 11月14日朝8時に塾を出発し、一路、京都の霊山歴史館に向かいました、歴史観では2009年秋の特別展で「龍馬たちの挑戦」の展示会でした。資料館の中は坂本龍馬を中心に幕末に活躍した人達とその遺品が主に展示されていました、前回、歴史館を訪れたときは、特別展で無く多くの幕末から明治維新までの人達の活躍内容文、遺品が沢山展示されていて勉強に成りましたが、四国の私には高知に何回となく龍馬資料館へ出かけていましたので今回は高知の龍馬資料館の中に居るようで、少し物足りなさを感じました。

        

 資料館を出て幕末の志士達のお墓を見学し、八木邸に向かいました、八木邸は 幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生したのです。
 当時、当家は11代八木源之烝應迅と申しました。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てていた。
 当家奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語っています。
 こうして近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがありました。
 壬生に生まれ幕末京都の治安を守った新選組。あしかけ3年の新選組壬生屯所時代。これが真の新選組のすがたではないでしょうか。

 八木邸を後にし、島原の輪違屋の見学に向かいました。
 輪違屋とは
 1.創業元禄元年(1688年)で、300年以上の歴史を誇る。
 2.揚屋と置屋を兼ね備え、
  3人の『太夫』と1人の『振袖太夫』を置いている。
 3.建物は昭和59年京都市の文化財に指定されている。

 営業中のお店ですが「観覧謝絶」と入り口に書いてあります。ですから、角屋さん「置屋」の様に見学は出来ません。太夫を置く「置屋」でもあり「揚屋(大規模な御茶屋)」でもありますので輪違屋さんで宴会を開くことも可能です。しかし、可能といっても『いちげんさんお断り』の世界ですので、なかなか中には入れません。
 私達は14年ほど前に京都政経塾に勉強会に出かけたときに、当時の京都政経塾の甲斐塾頭より紹介を受け、その後何度か出かけた事があったので、置屋の高橋さんとはそれ以来お付き合いで、見学をする事が出来ました。一階は今でも宴会をしていますが、二階は京都市の文化財に指定されていますので、見学のみです、当時のふすま、壁、天井、当時太夫が着ていた内掛けなど大変貴重な物が見られます。
 見学後、その日の夕方、大阪商業大学の石神氏と打ち合わせが有り、大阪へと向かいました、大阪には19時頃着き、ホテルに荷物を置き、近くの居酒屋で、石神氏、石橋氏、鎌田氏、吉田氏の四人と二時間半ほど、お互いがどんな事をし、何を目指しているか、ザックバランにお話が出来て、楽しい意見交換の時間でした。

 翌朝10時にホテルを出て、適塾の見学に向かいました。敵塾(てきじゅく)とは、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大阪・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来。
 幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学や慶應義塾大学の源流のつとなったそうです、敵塾で敵塾の謎(芝哲夫著)の本を買い後ほど勉強して又記事で報告したいと思います。
       

 敵塾を出て、司馬遼太郎記念館に行きました。記念館の内部には大量の本がギッシリ詰まった高さ五メートルの本棚は圧巻でした。十五分程の司馬遼太郎が何を求め、疑問に思って探求し追い求めて歩んだ人生をホールで見せて頂いて、帰りに「人間というもの」題の本を買い求めました、買い求めた根拠はサブタイトルが(人の世とはいかなるものか、日本人と日本人の未来とは)この言葉に引かれました。

 司馬遼太郎記館で予定していた行事を終え、帰路に着きました。
平成21年11月15日
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