第 201 号 |
中岡慎太郎館訪問 |
7月30日、1年ぶりに中岡慎太郎会館を訪問致しました、今回は半年ほど掛けて会館のリニアール後始めての訪問です。 会館も中は、幕末の流れが良く解かる様展示されていました、今回は、会館の中でも、慎太郎の足跡を中心に見て周り、慎太郎自身が大きな志で、全国の当時の主な人物と会い多くの人脈を作って居た事に驚かされました(日頃、政経塾の勉強会で人生の最大の財産は人脈成りと何時も言っている自分が恥ずかしくなるほどの人脈でした)慎太郎の偉大さは此の人脈を適材適所に生かし、其の時代を動かした天才だったのではないでしょうか?無論、知識も持ち、知恵も持ち合わせていただろうと思われます。なりより人間業とは思われない程の行動力が多くの人脈を作り、多くの人の信頼を受けたからこそ、大きな仕事が出来たのではないでしょうか? 尚、中岡慎太郎の足跡は下記に簡単に乗せさて貰います。 土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次、はつの長男として生まれる。武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学び、文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。 文久2年(1862年)長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。 文久3年(1863年)京都での8月18日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに藩を脱藩し、同年9月、周防国三田尻(現防府市)に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。 元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い負傷する。 長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる(中岡慎太郎自身のこの頃の手紙による)。そして、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始める。三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて巻き込んで行き、慶応2年1月21日(1866年3月2日)(あるいは22日(3日))、京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。 慶応3年2月(1867年3月)龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。その後、薩土同盟についても同様に奔走し、まず5月21日(6月23日)土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松清廉(小松帯刀)・西郷吉之助との間で倒幕のための薩土密約締結に成功する。 更に土佐藩そのものを本格的に取り込むための運動を展開し、6月22日(7月23日)京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村道成・後藤象二郎・乾退助・福岡藤次(福岡孝悌)・石川誠之助(中岡慎太郎)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。 この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、同年6月26日(7月27日)長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する。しかしこれらの薩土同盟・薩土芸同盟は、土佐藩・安芸藩自身による大政奉還建白書や山内容堂の徳川宗家への強い恩顧意識のため、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いにおいて薩長官軍側の優勢が判明するまで実質的な威力には乏しかった。しかしながら、これらの慎太郎・龍馬の労苦の結晶である軍事同盟締結は、土佐藩内においては旧態依然とした兵制を改革させる決定的契機となり、土佐を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた。また同時に、倒幕後の政治ビジョンを描かざるを得ないことから封建制・幕藩体制をどう変えていかなければならないかという意識改革・藩政改革を他の諸藩よりも早めに進めざるを得なくなり、土佐出身者を薩摩・長州・肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力たらしめた。 7月かねてから長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を本格的に組織し始め、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。 11月15日(12月10日)京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負う(近江屋事件)。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語り、11月17日に死去した。享年30。 死後、海援隊士らはいろは丸沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の報復であると考え、紀州藩士三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦った(天満屋事件)。 墓所は、京都市東山区の京都霊山護国神社ほか。室戸岬に銅像が立つ。この銅像は桂浜にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ていると噂されているが、両者の銅像の方向には全く関係はない。 備 考 ・土佐藩では庄屋は転勤の制度があったため、中岡家のルーツは室戸ではない。 なお、姓は藤原氏、家紋は丸に綿の花である。 ・生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木地区に「中岡慎太郎館」が建てられている。 土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめん・なはり線)奈半利駅より北川村営バスで約20分。 ・近江屋で坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」 といいながら襲ってきたと話している。また、焼飯(焼きおにぎり)を食べたいとも話した らしい。 ・「今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」とい う言葉を残している。 ・薩長連合、薩土密約、大政奉還等は、坂本龍馬が中心に描かれたテレビドラマや小説が多い が、その発想や行動において真の立役者は、本当はどちらであったかは議論が分かれるとこ ろである。実際は、中岡であったという歴史家の意見もある。また、中岡が龍馬の西洋的な 議会主義的思想にどの程度まで理解を示したのかも今日まで不明な点が多い。 ・2000年にアメリカで発行された『JAPAN』という日本を紹介する本では、何故か坂本龍馬 の銅像として室戸の中岡の銅像が紹介されている。 ・笑顔を浮かべた写真は当時としては珍しく、そのイメージ通り普段から気さくな笑顔を絶や さなかった。他藩との会合の後も即座に立ち去る事はせず「お互いに大変だなぁ」と肩を叩い て労った。その人徳は厚く「中岡は信用に足る」という評判はさまざまな所で語られたという。 中岡慎太郎会館を後にして、高知市内の「龍馬の生まれたまち記念館」を見学に向かいました、記念館の中は、坂本龍馬が生まれた家とか生活していた所のミニチアが整然と展示され龍馬がどの様にその町で生活していたかビデオ等が沢山置かれ、其の時代の生活が良く解る様展示されていました。 残念ながら、坂本龍馬が倒幕にどんな思いを抱いて、どんな人生を送ったか全く解らないまま展示物を見終わりました「龍馬の生まれたまち記念館」は高知における、龍馬の生活を主に紹介する為の資料館みたいでした。 |
平成23年7月30日 |
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