第 211 号 |
『村上水軍』『大山祇神社』訪問 |
2月11日(土)、今回の偉人館巡りは、塾生が仕事の都合もあり参加者が少なく3名となりましたが、今治市にある村上水軍と大山祇神社訪問のため、塾を朝9時30頃出発し、まず村上水軍へ向いました。 村上水軍とは伊予国の守護河野氏の支配化の水師で、瀬戸内海の因島・能島・来島を拠点に活躍した海上の武装集団です。河野水軍支配下の忽那・今岡・得居・能島・来島・因島の六氏の水師の中で、能島・来島・因島の三氏は三島村上氏と呼ばれ、互いに強い同族意識を持ち、三家合わせてその数は790余騎ともっとも勢力が強大でした。 《能島村上水軍》 中世後期に瀬戸内海の伊予国能島(野島・大島)を拠点に活躍した武装集団。毛利支配下の水軍として、織田、豊臣両氏と対立し、豊臣方に下った来島村上氏を許すことができず、執拗に攻撃し瀬戸内海より来島村上氏を追放する。しかしながら、織田信長死去の後、豊臣家と毛利家の両家で和睦がもたれたため立場が一転し、とくに秀吉に嫌われた能島村上氏は"海賊禁止令"に抵触したと罪をきせられる。小早川隆景の懇願で処刑だけは免れるが、逆に瀬戸内海より追放される。 《来島村上水軍》 室町時代は伊予守護河野氏の重臣で、戦国期には毛利氏の水軍として働く。五代目棟梁通総(みちふさ)のとき来島氏を称し、河野氏を離反、豊臣秀吉の水軍に編成され、伊予国二郡のうち1万4000石を安堵された。通総の嫡子康親は関ヶ原の戦で東軍に降り、1601年(慶長6年)豊後国森に転封、通春のとき久留島氏と改めた。以後代々森藩主。明治維新後は子爵となる。 《因島村上水軍》 広島県東南部に位置する因島を拠点とする。豊臣秀吉と対立し能島村上氏は瀬戸内海から追放されたが、因島村上氏は小早川隆景に属し、毛利氏の船手組番頭としてその後も勢力を維持する。 南北朝・室町時代にかけ各地の浦々や島々で海賊が活動し、彼らはナワバリを通過する船から通行料をとり、関立などと称されていた。こうした中村上氏は、14・15世紀から歴史上にその姿をあらわし、警固、水運、交易などに携わりながら、多くの小さな海賊たちの中心となり、しだいにその勢力を伸ばしたとされています。やがて戦国時代になると、村上氏はその強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い海域を支配し、国内の軍事・政治・海運の動向を左右、こののち来島城を本拠とする来島村上氏は早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のちの毛利氏の有力な水軍となる。そして能島城を本拠とする能島村上氏は三氏の中で最も独立性が高く、村上武吉はどの大名にも従わず、独自の姿勢を貫き通したそうです。 能島・来島・因島の三氏、三島村上氏が他の戦国大名と大きく異なる点は、農村を生活基盤とする家臣以外に、月給制の海戦プロともいうべき船舶専従の兵員を多数扶養していたことで、とくに能島村上氏は34騎の海賊頭を率いていました。彼らは海賊城とよばれる独特の城郭を営み、海上の要衝に関所を構えて関銭を徴収したが、この関銭が彼らのもっとも大きな収入源となっていました。 海戦や海上輸送では抜群の能力を発揮し、提携する大名の信託に応えることによって、さまざまな特権や領地を手中にしてゆき、山名氏・大内氏ともつながり、対外貿易も行っています。その戦略的な価値のゆえに重宝され、有力諸大名と結んで勢力を拡大しますが、利益優先を目的とする水軍は、農村を基盤とする諸大名から卑しき者とみなされ、諸大名から不興や怒りを買うこともしばしばあったと云います。 1555年(弘治元年)の厳島合戦、毛利方についた村上氏は、その勢力を磐石としますが、毛利氏が織田信長と対立するようになると、三家もその渦中に巻き込まれてゆくこととなります。毛利氏支配下の水軍として、石山本願寺への兵糧輸送を行うなど力を発揮しますが、やがて来島村上氏が豊臣秀吉の勢力下に入るに及んで、三家は分裂し、激しく対立しあうことになります。やがて豊臣秀吉の天下となり、1588年(天正16年)の海上賊船禁止令により、その組織は解体してゆきます。そして徳川幕府の鎖国令により、大型建造船を所有することが禁止され、諸大名も水軍を用いることがなくなり、水軍は完全にその姿を消しました。(上記水軍の歴史説明は、海座資料一部から参考) 村上水軍博物館を訪問することになり、村上水軍の時代の背景や、どのような活躍をしてきたのかなど考えた事もなかったのが恥ずかしいのですが事実な事です。 今から400年以上の大昔、皆の目の前に見える瀬戸内海には、たくさんの海賊がいて、その海賊たちの中で、一番強かったのが、村上水軍・・・と、村上水軍ってなぁに?という説明があり、海賊と聞くとやっぱりいい印象がうかばず、海賊を歴史上に残すような活躍をしてきたのかとも思いましたが、博物館をじっくり見学するとその背景や活躍など知ることが出来ました。上記、海座説明資料から参考させていただきましたが、瀬戸内海の因島・能島・来島を拠点に活躍し海上の武装集団で、河野水軍支配下の忽那・今岡・得居・能島・来島・因島の六氏の水師の中で、能島・来島・因島の三氏は三島村上氏と呼ばれ、互いに強い同族意識を持ち、もっとも三島村上氏の勢力が強大だった事、また、強力な海の武力を背景に、国内の軍事や政治、海運の動向をも左右し、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通掌握し、戦時には村上水軍の機動力として活躍した小早船を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意としていた事や、平時には瀬戸内海の水先案内、そして海上警固や海上運輸などと、現代の海賊のイメージとは違い、海の安全や交易、流通を担う重要な役割を果していた事など、知ることができ勉強になりました。また、館内に能島村上水軍の軌跡や、中世甲冑の発見から修復にいたるエピソードなどを映像で解りやすく紹介してくれています。甲冑の修復作業には驚きが隠せませんでした。映像の中で修復された甲冑も博物館に展示されていましたが、時代の流れとともに腐敗した物を現代に残すその技術には、作業に携わる方々の時間と能力には驚きました。偉人館巡りをするたび思う事は、歴史の時代を駆け巡ってきた様々な時代があったから現代があり、また、発掘調査で出土した遺構や遺物、古文書などからその時代の背景を知り、今の時代に受け継がれている。今の私たちがこの歴史に刻まれた物語を言い伝える事が未来の良い時代の参考に成るのではないでしょうか? 次に向ったのが、大山祇神社です。館内入り口鳥居をくぐり進んでいくと、樹齢約2,600年の神木である大楠が鎮座しています。また、境内の周りを約100本の大楠群が囲んでいます。本殿・拝殿・宝篋印塔は国の重要文化財に指定されており、隣接する宝物館には国宝を含む数多くの重要文化財を収蔵しています。宝物館では、写真撮影が禁止されていましたが、鎧、兜、刀剣類が展示されていました。自分もビックリしましたが、大和田塾頭の話では重要文化財や国宝が展示されている数の多さはおそらく日本一ではないかと話していました。境内の案内に次のように書かれていました。 日本総鎮守 大三島宮 大山祇神社由緒 御祭神 大山積大神 御祭神大山積大神は天照大神の兄神で、山の神々の親神に当り(古事記・日本書紀)天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊豫國風土記)と申し上げる。海上安全の守護神である。 地神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であるところから古代より日本総鎮守と尊称され朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤く中世は四社詣、五社詣の中心となり、平安時代既に市が立ち現在に続いている。 御分社は、全国に10,000余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ伊予国一の宮に定められた。明治以降は国幣大社に列せられ四国で唯一の大社として尊崇されている。 境内はとても広く、今回は時間が余りなかったので、紫陽殿、海事博物館を見学できませんでした、今度時間を掛けてゆっくり訪問しようと思います。 |
平成24年2月11日 |
目次へ |