第 212 号
今治・村上水軍博物館考察
~海に生きた人々の教えに学ぶ~
 1.村上水軍とは
 村上水軍は、戦国時代から南北朝時代にかけての来島海峡一帯の諸島を海の海賊と呼ばれた能島村上氏(村上武吉・たけよし)を筆頭に因島村上氏 (村上吉充・よしみつ)来島村上氏(村上吉継・よしつぐ)が互いに力を合わせて俗に言う三島村上氏を築き上げ、これを村上水軍といっている。なかでも能島村上氏は「日本最大の海賊」との称されている。
 なぜ三氏が力を合わせることが出来たかという点についても再考の余地がある。

       

 2.村上水軍の先見性
 三島村上氏の村上水軍は、海賊と呼ばれながら1561年(永禄4年)には、豪族・毛利隆元に味方して豊後の大友軍との闘いに勝利し、天正期には、毛利方の海上勢力の一翼として織田信長の水軍と戦うなどの功績を挙げていた。
 また、村上水軍は、海上警護や航行の安全を保証する水先案内の名目で通行税を取るなどこの一帯を支配し、海の安全や交易、流通を把握する経済面での感覚も持っていたと思料される。

 3.村上水軍と秋山真之
 海戦における水軍戦法でおる能島村上家伝来の舟戦以律抄(しゅうせんいりつしょう)1724年(享保9年)には(孔明の八陣方)と李靖の六花陣(円)をもとに作成された海戦時の船団の陣形・方円之陣営を取り入れ、これを運営する際は、そのまま取り入れるのでなく、人知を考慮して運用すべきとするなど軍師的水準もかなり高いもであったと思われる。
 また、秋山真これら中世の村上水軍の能島流海賊戦法を熱心に学んでいたとされており、近代・秋山真之の海軍戦法にも大いに役だったと思われる。

 4.考察
 能島村上氏は、豊臣秀吉が四国を平定した後、伊予国主となった小早川隆景の支配下となったが、小早川隆景の筑前転封にともなって1587年・天正15年に能島を去り、海賊禁止令(1588年・天正16年)によって急速に勢力が衰えていたとされている。
平成24年2月11日
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