第 216 号 |
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偉人館巡りとしまの大学 訪問 | ||||
来月韓国機会の学塾が、しまの大学に訪問予定の為、5月26日、偉人館巡りも兼ね、朝8時30分に塾を出発し、しまの大学の打ち合わせ時間調整の為、村上水軍資料館を見学致しました。前回訪問時は気づかなかったのですが、展示している当時の船の艪が異常に長いのに気づき、何故長いのか聞いてみると、艪の支点より水に浸かる部分が長いほど船が早く進むとの事でした、漁師さんは此れぐらいのことは皆さん知っているそうです。漁の方法が船の早さを変えるためイロイロな艪を持っているそうです。全館の資料を読み、昼食を取り、瀬戸田の耕三寺に寄りました。耕三寺は、耕三寺耕三和上が御母堂逝去にともない僧籍に入り、その菩提追悼のため建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。昭和11年から30年あまりの歳月をかけて造られた堂塔の数々は、飛鳥から江戸時代にかけての、代表的仏教建築の様式や手法をとり入れ復元されています。日光陽明門を10年がかりで再現した孝養の門と新宝物館に展示されている優れた美術品や、四季折々に彩られる約5万平方メートルの境内は、極楽浄土の世界を想わせます。また、平成12年には彫刻家、抗谷一東氏による広さ5千平方メートルにもおよぶ白い大理石の庭園「未来心の丘」がオープンしており、桜や紅葉の名所としても有名な場所です。 耕三寺を後にして上島町に向かい、今回島の訪問の本題の打ち合わせの為兼頭氏と会い、少し時間が有ったので、大学の新学部開設(天命実現学部)の授業に参加させて頂きました。少しの時間でしたが大変貴重な時間を過ごさせて頂き、学塾訪問の予定の打ち合わせの為に、機会の学塾の人達が泊めて頂く家に兼頭氏と一緒に向かいました。此の家は村上さんの父の家で、今は島外から大学の授業に訪れた人、講師の方々が時々利用しているみたいです。家の中に入り寝るところ、風呂、トイレ等を見さて頂き、村上律子さんと打ち合わせをしました。朝、昼、夕の食事は村上さんが責任を持ってやって頂く事になり、島での予定は仮ですが下記の様に成りました。 15日(金) / ソウル ⇒ 松山 = PM 4:30 着 松山空港 ⇒ 弓削島着 = 夕食 / 宿泊 16日(土) / 午前 ⇒ 例1 弓削島の人達とキムチ作り 例2 島めぐり 午後 ⇒ しまの大学勉強会参加 夕食 ⇒ 島の人達からの歓迎会 (海辺でバーべキュー) 17日(日) / 例1 魚島村長 ディスカッション 例2 佐伯マサト氏(朝鮮通信史)シンポジウム 例3 愛光園・金任順氏と対談その他大学の教授と対談 (テレビ局3社、新聞社2社に声がけし来て貰う事を確認) 此処までの予定は島で決まり、後は下記の様に決め、交渉の為、其々の所に翌日話し合いに行き、案内人も決まりました。 17日(日) / 昼からは四国中央市へ ⇒ 新宮 ⇒ 霧の高原コテージ泊 ※ほたるの里見学予定 18日(月) / 朝食後 ⇒ あじさいロード見学 ⇒ 霧の森昼食 四国政経塾訪問 ⇒ 宿泊=長谷寺泊 19日(火) / 帰国日 ⇒ 松山 17:30発 ⇒ ソウル 19:00着 以上の様に私どもと致しましては、出来るだけ機会の学塾の人達が満足出来る受け入れ準備が整えましたが、予期せぬ事態が5月の末に機会の学塾の理事長から電話が有り、一転致しました。当初は6月22日~26日の予定でしたが、学塾の事情で15日~19日に変更に成り、同じ理由で今回の訪問は中止しなければならないと電話が入り、四国訪問が中止になりました、信じられない出来事です。 今回の行事は、3月に私達がしまの大学に行き、忙しい兼頭氏に大学設立の経緯、今後の方向性を、ボイスレコーダーに取り、其れを聞きながらパソコンに打ち日本語から韓国語に翻訳し、4月に機会の学塾に行き、大学の説明をし、韓国での最終の食事の時も機会の学塾の塾生達が、しまの大学に行って何をするか、話し合いました、其れで、同じ理由で取りやめ、納得がいかない。 私自身の気持ちとして、機会の学塾から日にち指定をし、人数も決め、訪問致しますとのやり取りで、多くの人々に動いて貰い(特に上島町の兼頭氏、村上さん、島の人達)申し訳ない気持ちでいっぱいです。又、霧の高原コテージの管理人、霧の森のレストランの人、新宮の案内を頼んだ方々、長谷寺の住職さん、其れに共に、交渉に行ってくれた塾生、たった一本の電話でどれだけの人々に迷惑を掛けたかと思うと自分自身が辛いとか情けないとかの思いよりも、今までのお互いの信頼関係は何だったのと思う気持ちでいっぱいです。理事長の口癖の言葉をお借りすると、我々が動いたのは何の意味が有ったのでしょうか?? |
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平成24年5月26日 | ||||
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