第 222 号
高知・偉人館巡り
 8月25日、高知県の自由民権資料館・龍馬資料館を訪問し、幕末の時代、明治維新の時代の、其々に活躍した人物をより理解する為訪問致しました。
 龍馬資料館では、観光客が多く来られていて、其々の遺品の展示物を長々と見ながら資料を読む事が出来なく残念でしたが、特別展示点で、武市瑞山(半平太)の特別展が有り、良い勉強になりました。
 坂本龍馬の事は、映画、本、漫画と多方面で知られているが大まかな人生を書かさせてもらいます。

 幼少時は、落ちこぼれなどと言われ、楠山庄助塾もできの悪さですぐに退塾させられたと言われています。泳ぐこともできず姉の乙女に、腰を縄で結び反対の縄の先を竹竿に結びつけ、家の近くを流れる鏡川に投げ入れられて特訓を受けた(無理やり?!)のは有名な話です。そんな龍馬も剣術道場に通うようになり、変わります。通っていたのは日根野道場で、そこで「小栗流和兵法事目録」を伝授されます。
 そして、江戸へ剣術修行に出ます。江戸では北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門。その後各地を転々とし、龍馬は桶町の千葉道場に身を寄せます。そして、文久2年(1862)10月に千葉重太郎と共に、軍艦奉行並勝海舟を暗殺しようと氷川町の屋敷に向かいます。しかし、勝海舟の話を聞いた龍馬は感銘を受け、その場で弟子入りを志願。門下生となりました。その後龍馬は同士を門下生に次々と入れていったのです。勝海舟との出会いは、今後の龍馬にとって重要なものとなりました。
 慶応2年(1866)1月10日、薩摩藩城代家老小松帯刀邸で薩摩藩側から西郷吉之助、小松帯刀、吉井幸輔、長州藩側から桂小五郎、品川弥二郎、三好軍太郎らが出席し、秘密会談が行われました。いく度の問題点を乗り越えて 薩長同盟が成立したのです。
 慶応3年6月23日には、京都の料亭で薩摩藩側から西郷吉之助、小松帯刀、大久保一蔵、土佐藩側から後藤象二郎、福岡藤次、中岡慎太郎らによる会談が行われ、大政奉還実現に向け、軍事同盟である薩土盟約が成立しました。
 慶応3年(1867)6月9日、龍馬は後藤象二郎に長崎から兵庫へと向かう藩船の中で、薩長に比べ政治的遅れをとる土佐藩へ起死回生の策「船中八策」を提案しました。その案は、将軍家が自ら朝廷に大政(政権)を返上し、議会政治を行うという大政奉還を軸に、人材の登用、国際法の制定、日本国憲法の制定など、「五箇条の御誓文」の草案ともなったと言われるものです。同年10月3日、後藤は容堂の命を受け、二条城で板倉勝静に建白書を提出、6日安芸藩主浅野茂長も大政奉還建白書を提出しました。そして、14日慶喜の命を受けた高家の大沢基寿が大政奉還の上表を朝廷に提出し、翌15日に勅許され、大政奉還となったのです。

 武市半平太展では、半平太の人柄、其の時代に何をすべきか、又どの様に行動を起こすかを大きな目で其の時代の日本を見つめて居た事に関心致しました。
 武市瑞山は文政12年(1829)9月27日、長岡郡吹井村(現高知市仁井田吹井)に生まれた。通称、半平太。本名は小楯、号は瑞山。瑞山と龍馬は親戚関係にあり、身分は郷士の龍馬よりも上で、上士と下士の中間にあたる白札。冷静沈着で優等生の武市と、いつも夢を語り「大風呂敷(大げさ)」と呼ばれていた龍馬は好対照だったが、一時は同じ方向に向かおうとしていた。
 文久元年(1860)8月には、土佐藩同志の団結を計画して土佐勤王党を結成。勤王党員の手による吉田東洋暗殺後は土佐勤王党が台頭し、藩内で大きな力を持つようになり、栄華を極めた。しかし、隠居していた前藩主・山内容堂が土佐へ帰ってきてからは、一転して弾圧される立場となり、遂には瑞山も投獄された。龍馬が亀山社中を結成した慶応元年(1865)瑞山は獄中で切腹させられた。享年36歳。
 土佐勤王党には当時維新で活躍した人達が多く入っていた。板垣退助もその1人である。

 龍馬資料館を出て、其の自由民権資料館を訪ねました。自由民権運動と言えば、板垣退助の事が思い浮かぶが、板垣退助の事は他の塾生が記事に書いてくれると思いますので、違う視点から自由民権運動を見てみたいと思います。
 其の板垣退助を支え、全国で演説会を多くの若者が行っています。中でも自由民権運動の理論化、植木枝盛は、明治10年に「明治第二ノ改革ヲ希望スルノ論」を発表し「政府ノ独裁ヲ廃シテ人民ヲシテ政権ヲ掌るラシム可キ也」と宣言した。
 植木にすれば、明治維新は支配者が交代して新たな独裁政府が登場しただけの改革であり、これから第二の改革(自由民権運動)によって、憲法を制定し国会を開設して、国民の政治参加と自由権利を実現しなければならなかった。

       

 土佐における自由民権運動は演説会や新聞発行、各種のイベントによって広がっていった。そして各地における夜学、懇親会の隆盛をもたらした、広く民衆が参加する運動となった。そしてその中から、人権条項が充実した憲法草案を生み出した。
 もしかしたら、植木枝盛なくして、自由民権運動の成功は無かったかもしれない?
平成24年8月25日
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