第 224 号
坂本龍馬記念館・自由民権記念館訪問
 平成24年8月25(土)坂本龍馬・自由民権記念館を訪問しました。

[坂本龍馬記念館(高知県立)]
 記念館の外観はブルーとオレンジの奇抜な色使いで、建物が桂浜まで伸びていくような、あるいは、船出をするようなイメージを持ちました。建物内部は鉄骨や支柱などが剥き出しの所があり、地上2階のエレベーター前は、屈まないと支柱に頭がぶつかってしまう、見学者に不親切な建物になっていると感じました。私が狭い所や危険な所を気になったくらいなので、目の不自由な方や車イスで移動される方には、とても見学し難い展示室であると感じました。
 建物(外観・内観)の奇抜さをアピールするために、見学コースが不便になっても良いのか、そもそも記念館に奇抜さが必要なのか?疑問です。記念館の建設に際して、まず見学のしやすさや展示内容にこだわって欲しいと思います。
 展示内容は、地下2階に龍馬の手紙が常設展示されています。内容が分かりやすいように口語訳文が添えられており、姉の乙女に宛てた手紙を読むと、龍馬のユーモアがあり暖かい人柄が伝わってきます。
 地上2階のパネル展示を見ると、幕末の大義は全て龍馬が主役。と言わんばかりの展示内容でした。先日、中岡慎太郎館を見学しているからこそ分かることですが、商売人である龍馬が大義を成した一員であることは間違いないと思いますが必ずしもいつも主役ではなかっただろうと思います。歴史に埋もれている偉人が大勢いると思います。かなり龍馬ひいきが表れている記念館だと感じました。
 吉田東洋や関わった人物が紹介されている企画展示コーナーが、展示者の意向が偏ってなく興味深い内容と感じました。
 今後の偉人館巡りで幾度となく同じ場所を見学することで、幕末の志士達の真実を追い求めたいと思います。記念館・資料館の展示を鵜呑みにするのではなく真実に近づけるように、また新たな発見や影響を与えてもらえるように心構えをして見学を続けてゆきたいと思います。

[自由民権記念館(高知市立)]
 自由民権記念館は、高知が日本の現代に大きく関わった意義を知ることができる貴重な施設だと思います。
 教科書には載っていない(私の習った教科書には記載されていなかったと思います。)、明治初期の政治や情勢がよく分かります。当時の政治活動に高知の出版界が果たした役割は大きいようです。また、日本が近代国家へと歩む側面の一つを知ることができる記念館です。
 志半ばで亡くなった幕末の志士たちも、「自由民権」への志向があっただろうと思います。タラレバを言えば切りがありませんが、明治維新を武知半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬らが生きて迎えていたならば、明治政府発足時に自由民権が確立されていただろうと私は想像します。
 しかし、政府が薩摩・長州など一部の藩の出身者に握られている専制政治を経験したからこそ、国民に自由民権の必要性が認識され、全国的な運動に繋がったのだと思います。
 自由民権運動と言えば、板垣退助の名が挙がると思いますが今後、学習を深めることにします。今回は特に心を惹かれた、楠瀬喜多、植木枝盛について述べたいと思います。

【婦人参政権の先駆者】
 楠瀬喜多は天保7(1836)年9月、土佐郡弘岡町(現高知市)生まれ。土佐藩士の楠瀬実と結婚するも、明治7(1874)年に夫が病死し、その後は独身を通している。
 明治10(1877)年頃から立志社の演説会によく出掛けるようになった喜多は、未亡人戸主として税金を納めていたため、明治11(1878)年、区会議員の選挙へ投票に行った。ところが、「女性には選挙権がない」と投票を拒まれてしまった。『高知県民会議事章程』によって、女性は選挙人から除かれていたためであった。納得のいかない喜多は、税金を納めるのをやめてしまった。そして、3カ月ほど滞納したところ、県から催促を受けたので、「納税しているのに女だから選挙権がないというのはおかしい。本来、権利と義務は両立するものなのだから、選挙権がないなら納税しない」と『税納ノ義ニ付、御指令願ノ事』を県に提出し、回答を要求した。
 当時の民権家たちの女性観をはるかに超え、堂々と婦人参政権を迫った喜多のことが、明治12(1879)年1月26日付の全国紙『大坂日報』『東京日日新聞』などで報道され、大変な評判となった。これが、婦人参政権運動の第一歩である。
 喜多の闘いから2年後の明治13(1880)年、小島稔や坂本南海男などが中心となって奔走し、県令と3カ月にわたるやりとりの末、高知の上町町会、ついで小高坂村会に日本で最初の婦人参政権が誕生した。
 高知は婦人参政権発祥の地となったが、明治17(1884)年になると、政府がこの権利を廃止してしまった。わずか4年の生命だった婦人参政権は、この後、終戦後の 昭和21(1946)年まで実現していない。
 権利と義務は両立している。納税しているから選挙権があるという、民権ばあさん(楠瀬喜多)の今でこそ当然主張できる意見だが、あの時代に堂々と主張したことに頭が下がります。幕末の志士達にも引けを取らない、腹の据わった人物だと思います。
 正しいと思ったことを貫ける強い意志を身につけられるよう、まずは身近なところから考えてみようと思います。学習や修行を積みつつ、自分と向き合い“志”を立てたいと思います。

[植木枝盛]
 安政4年1月20日(1857年2月14日~明治25年(1982年)1月23日)明治時代の思想家、政治家、自由民権運動の理論的指導者。雅号は六花。

 略歴:生い立ち~青年時代
 土佐藩士植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県高知市中須賀町)に生れる。8歳より習字を学ぶ。藩校致道館、1873年(明治6年)土佐藩海南私塾の生徒として抜擢されるが、9月に退学し帰郷する。
 征韓論政変に触発されて状況を決意し、傍らキリスト教関係書物『天道遡原』を読む。1875年(明治8年)19歳で上京し慶応義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い、明六社に参加し、福沢諭吉に師事して学ぶ。自ら修文会を組織して奥宮荘子会(奥宮慥斎)にも参加する。1875年(明治8年)から『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京日日新聞』などに投書を始め、1876年(明治9年)3月、『猿人君主』(郵便報知)が掲載され、讒謗律による筆渦事件で2カ月入獄する。キリスト教に興味を持ち始め耶蘇協会に通う。10月に『思想論』などを書く。

 自由民権運動~政界へ
 1877年(明治10年)板垣退助に従って帰郷し書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。西南戦争による立志社の獄では逮捕されず、高陽社が創立され、機関紙『土陽新聞』『海南新誌』の編集・執筆にあたる。1878年(明治11年)愛国社再興のために四国、中国地方に遊説、8月『尊人説』を執筆。12月頭山満に招聘され福岡に向かい、向陽義塾の開校式に出席して演説した。『愛国志林』『愛国新誌』の主筆として論陣を張り、1881年(明治14年)に、私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。1882年(明治15年)、4月8日、板垣の岐阜非難を受けて大阪での酒屋会議に出席。5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪・中江兆民・田中耕造・田口卯吉・末広重恭と共に『自由新聞』社説を担当、板垣外遊をめぐる内紛のため、のちに分裂。1884年(明治17年)東海、北陸地方を遊説して帰郷。代言人試験に遅刻してあきらめる。1886年(明治19年)高知県会議員に当選。1888年(明治21年)大坂に向かい、中江兆民の『東雲新聞』を手伝い、幸徳秋水らと出会う。京都で馬場辰猪の追悼会と同志社設立のための会合に出席する傍ら遊説。10月1日には上京し、後藤象二郎の労をねぎらい、大同団結運動では大同倶楽部に所属し、大隈重信外相の条約改正問題を攻撃するため、福沢諭吉・寺島宗則・副島種臣を訪問して反対運動の工作をし、建白書を執筆。直後に玄洋社による「大隈重信爆殺未遂事件」が起こったが、条約案は葬り去られた。愛国公党設立に尽力し、1890年(明治23年)帝国議会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1891年(明治24年)、2月板垣や栗原亮一らとの意見の違いから立憲自由党を脱党、愛国公党(土佐派)系を率いる。8月、富士山に登山。1892年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。

 エピソード
 ■『日記』にもあるように思想や著書は、福沢諭吉の民権的な著作(『通俗民権論』『通俗
   国権論』)の影響が強いが、『赤穂四十七士論』のように、思想家として自立した著作
   も多く残している。
 ■ 後藤象二郎を「後藤伯ハ平民ノ伯ナリ」と絶賛する一方、大隈重信を「主義なき政治家は
   あらず」と痛烈に批判した。

【植木枝盛 遺稿『無天雑録』より】

未来が

()の胸中に在る者

(これ)を青年と()()

 私はこの文章の意味を志を胸に抱き未来の実現に向けて、行動する人のことを青年と呼ぶと解釈しました。
 最近の日本の政治は、どこか明治時代に似ているように思います。志なき議員による主義なき政治、国民不在の政治、心の通っていない政治。議員に当選し地位を得ることが目的になっているように感じます。人の営みはそれぞれ現場で行われています。国の営みを行うには、それを知らずしてはできないと思います。まして足の引っ張り合いの議会では、成長を望めないと思います。
 本当に国民のための政治が行われるように有権者として先人達がそうであったように意見を述べられるようになりたい。1歩ずつ学習、修行を深めつつ都度、意見を述べられる人になれるように塾での活動や学習に取り組んでゆきたいと思います。
平成24年8月25日
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