第 235 号 |
原爆資料館に初めて訪問して |
先日、広島県の上村珠美さんが来塾され、上村さん本人の生き方や考え方を講演してくれたことがきっかけで、今回資料館を訪問する事になりました。中学校の修学旅行で見学するはずだった原爆資料館を修学旅行当日に高熱を出し行けなかった。当時に行く事が出来ていれば違う見方になっていたと思いますが、今回初めて行く事になり入館料が50円で安くびっくりしました。が、観光客の多さで納得しました。 1階は原爆投下前の広島の街の説明で、原子爆弾とはどういうものかなどの解説がメインでした。原爆投下前と後を比較出来る縮小版の模型が中央にあり、縮小版の中の人間や建築物がとても小さく脆く思いました。たった一つ三メートル程度の小さな原子爆弾「リトルボーイ」が広島に落とされ上空600メートルで閃光を放ち爆発し、爆心から2キロに及ぶ町や建造物、人を跡形もなく壊し焼き尽くした破壊力は決して許される物ではないと思いながら、当時の人の遺品や手紙、写真を見ていると、自分がその中へ入り込むような感覚があり、体が重くなった感じがしました。衝撃を受けたのが強烈な蝋人形でした。目を覆いたくなるような顔、血で赤く染まりただれ溶ける肌、腕の皮膚が溶けどろどろになって歩いている様子が当時のリアルな光景だったと思うと地獄絵図に見えました。ただあてもなく、その場から逃げなければという使命感で全身の痛みに耐え歩き、水を求めて川に逃げ込んだ川が数万人の被害者で埋め尽くされ真っ黒になったと聞き悲しく思いました。 この他に、銀行の開店待ちで階段に腰を掛けていた人がそのまま階段に黒い影を残したというその場所に「その影は自分の身内のものかもしれない」と言う人がたくさんいたという説明書きが印象的でした。 原爆投下直後の被害の資料がモノクロ写真で、全身の大やけどを撮った写真や、帽子をかぶっていた部分だけやけどしなかった頭部の写真、重ねてあった茶碗が溶けて一体化している現物や変形した黒い爪が伸び続ける写真、斑点が出た舌の模型、実際の話を映像にまとめたドキュメント放送など資料館に飾られ貴重な資料となっていましたが、もし、自分が被害者だったら、快く撮影に応じられるかなと疑問に思い考えました。 爆風、熱線による被害にあわなかった人には、放射線で被害に合い同じ家にいた姉弟の映像を見ると、姉は吐き気と熱と喉に膿が出来て苦しみ、弟は元気だった数日後、弟にも症状が出て苦しんだ結果、内臓のようなものを吐き出し死亡、姉は喉の膿が破れ回復したと言っていました。2人とも脱毛症状もあって、母親が頭を撫でたらごっそり抜けたと解説がありその場の絶望を思うといたたまれなくなり見るのを止めました。 原爆被害で白血病を患って亡くなった佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった子供の慰霊碑を作ろうと寄付金を募って作られ弔いたいと願う人たちの心が作った場所に折角の折鶴がケースの中に収納されていました。でも、放火事件が何度も起きて、折角の折鶴が燃やされてしまうのを防ぐ為に今はケースの中に収納されていることを知り、心が痛みました。ケースの1つだけ開放されて、「鶴を持参した人はここに飾ってください」と書かれ、今現代も被害者の人たちは苦しみ、怒り、悲しみを背負いながら生活し、忘れることは無いと思います。平和の為、子供達の供養の為に心を込め一つ一つ折った折鶴に放火する人は何を思ってそんなことが出来るのか理解できません。監視カメラまでつけられているこの場所は、なぜか淋しい感じがしました。色んな折鶴のメッセージを鑑賞し、四国に帰りました。現代福島の原発事故も地域住民にとっては広島の原爆同様に放射能に脅えながら生活している事を考えると、今自分に何か出来る事を考え行動出来るように生きたいと思います。 |
平成24年11月23日 |
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