第 236 号
広島平和記念資料館訪問
 平成24年11月23日に広島平和記念資料館を訪問しました。11月初旬に上村珠美さんに来塾していただき、お話していただいた中で平和記念資料館のお話が出て、塾生の石村幸俊さんから「大人になってから見ると、子供の時より遥かに感じ方が違う。よい経験でした」のお話があり、皆でよし体験しようということになり訪問しました。

【核兵器の開発】
 1939年に物理学者アインシュタインから、ルーズベルト大統領に宛てに送られた手紙が、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったとして知られていることを見学して初めて知りました。
 ドイツから亡命したシラードはナチスが爆弾を保有することを恐れ、対抗するにはアメリカが先に原爆を保有するしかないと考えた。ハンガリー生れの亡命者、シラード、ユージン・ウィグナー、エドワード・テラーが中心に核開発が進んで行ったようです。
 彼らは「核兵器が開発されたなら、いかなる2つの大国も、それらを統べる上位の権威機関によって軍事力がコントロールされない限り平和を保つことはできなくなると我々は悟り、もしそれが核戦争を廃絶するほど十分有効なものとなるならあらゆる形の戦争をも根絶するのに有効なものとなるだろうと期待した」「この期待が、敵の原爆の犠牲となる恐怖と同じくらいに強く自分たちを駆り立てた」のだと当時の動機について語っている。
 彼らの期待は実現していない「上位の権威機関によって軍事力がコントロールされる」ことは、歴史を振り返る限り不可能なことだと私は思います。各国が地球内でしか物事を考えている限りは不可能だと思う。宇宙からの脅威に世界各国が一団となって立ち向かう場面が来ないと難しいと思う。その時は、おそらく争いごとであろう。
 何か平和的な解決はないものだろうか。同じ人間同士、敵を作らなければ生きていけないのだろうか。世界共通の“神”が存在すればと考えることもあるが、各国さまざまな信仰の現状を1つに統一できる魔法を思いつかない。統一するための争いが起こるだろうし、統一できたとしても争いはなくならないように思う。もの凄い人工知能のコンピュータを“神”にしても、映画ターミネーター以上の事が起こると容易に想像できる。リセットされない限りどうにもならないのだろうか。地球上にある核兵器が数発使用されると、地球自体がもたない状況。
 化学、科学、物理学・・・学問は人々の幸せのために用いられるべきツールと考えます。核兵器、原子力発電所・・・原子力について、戦争について、平和について、日々アンテナを張り、学習し考え発信するなど行動し、子供や孫に平和な地球を残してあげたいと思います。
 この広い宇宙の中で「なんて地球は素晴らしいんだ、争いもなく全人類が助け合ってる」と、全宇宙の星々、全宇宙の生物から、そう思ってもらえる日が、1日でも早く訪れますように。微力ながら、出来ること、思いついた事から動いてゆきたいと思います。

【遺品の数々】
 爆心地に近いところで被爆した女子学生の夏服、疎開先の作業現場で被爆した男子学生の遺体に抱えられたお弁当箱(中身は真っ黒焦げ)、などなど沢山の遺品の数々に目がしらが熱くなりました。駅の崩れ落ちた瓦礫に足を挟まれ動けなくなった男子学生は、警察官たちの必死の救助も空しく、火災による炎の勢いに瓦礫撤去が間に合わず、命を落としたそうです。警察官に母親に学生手帳などを渡して欲しいと頼んで、生きたまま炎に包まれていった。想像を絶する、悲惨な状況に、本人の気持ち、親の気持ちを思うと悲しみがこみ上げてきました。

【原爆の被害】
 原子爆弾の爆発の瞬間、直径200メートルを超える火の玉になり、表面温度は7,000度になったそうです。この火の玉から、放射された熱線は人にも、物にも大きな被害を与えました。爆風により、倒壊した建物の下になり圧死する人、無数のガラス破片がくいこんだ人など。原爆の強烈な熱線により、爆発の30分後には大火となり火災がおおむね収まったのは、投下から3日後のことだったそうです。
 原爆の放射線による急性症状は、脱毛、下痢・粘血便、歯茎からの出血などの粘膜の障害、血液を作る機能の低下などで、被爆から約5カ月後にはほぼ終息したそうです。急性障害がほぼ終わったころから現れる障害を後障害といい、ケロイド、白内障、白血病、悪性腫瘍(ガン)、胎内被爆者の障害などの発生率が高くなった。

【訪問して感じたこと】
 原爆の強烈な熱線や爆風で大やけどを負い、はがされた皮膚がだらりと垂れ下がった様子を再現した展示がありました。遺品の展示もありました。しかし、悲惨さのうわべだけしか感じられないように思いました。
 何が起きたのか分からないまま、ススや土などにまみれ、血みどろになり、わずかなボロボロの衣服を身にまとい、安全な場所を求めてさまよったと聞いています。体を休めるベッドもない、治療する薬も足りない。火傷と8月の暑さでひどくのどが渇き、「水、水、水が欲しい」と訴えながら、家族との再会も叶わぬままに、多くの方が亡くなったそうです。河の水は、水を求めて来た人の山でお湯になったそうです。河までたどり着けずに亡くなった方も多いことでしょう。
 当時を知っている語り部が、減っています。語り部の意思を継ぐ代弁者が増えることを強く望みます。資料館として、どこまで展示するか悩んでおられることと思いますが、別館展示にするなどして、戦争、原爆の悲惨さをもっと感じられる場所があっていいと思います。
 公園を歩きながら、貞子さんをはじめ原爆被害を受けた子供たちの慰霊の“原爆の子の像”の付近に捧げられた折り鶴に放火する、平和公園の慰霊碑に落書きをした事件を考えました。何故そのようなことができるのだろうか。想像つきませんが、原爆、戦争、平和を語り継いでゆくことで、防止につながるのではないか、いや全国の学校教育の中で、もっともっと原爆、戦争、平和について取り組んでいくべきだと思います。そうすれば、人と思えないような残酷な行為は発生しなくなると思います。
平成24年11月23日
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