第 24 号
萩と吉田松陰

 8月9・10日、当初予定していた京都での研修が台風10号の影響により困難になった。そこで、大和田塾頭の発案で、急遽行き先を台風の影響を受けていない山口県の萩に変更した。
 萩は維新発祥の地と言われ、幕末や後の明治政府で活躍する志士達を数多く輩出している。また、町並みも当時のまま残されているところが多い。命を賭け、時代を変えようとした志士達の何かが感じられる、数少ない町である。
 私たちは今回の研修を前に、大和田塾頭から2つの課題を提示された。その1つは、当時の人になったつもりで町を回り、時代を動かした彼らの生活を感じろという事だ。
 正午過ぎに現地に到着し、萩の城下町を見学した。私は萩に訪れるのは初めてだが、当時の姿がそのまま残る町並みに感動した。長年、地元の方が後世に残そうと懸命に守ってきた証だろう。その姿に、尊敬と感謝の念を覚えた。
 最初に、金毘羅社の円政寺という神社を訪れた。ここは初代内閣総理大臣伊藤博文が幼少の頃育てられた寺だ。境内は広く、当時やんちゃ坊主であった伊藤が遊んでいる光景が目に浮かぶ。
 次に、青木周弼と木戸孝允の旧宅を訪れた。青木は医学者で、後に明治天皇の大典医として、また木戸は、長州藩のリーダーとして活躍する。両家ともそのままの状態で保存されており、当時の生活がいかに質素であったかを物語っている。
 この後、菊屋家を訪れた。菊屋は外様である毛利家を援助し、萩の発展に貢献した長州最大の名店である。さすがに屋敷の広さには圧倒された。また、幕府の使者をもてなす苦労も感じた。感動したのは、伊藤博文が西洋からお土産として買ってきた掛時計が、150年たった今も、時を刻みつけていることだった。
 名通である菊屋横丁を通り、奇兵隊の創設者である高杉晋作の旧家を訪れた。中に入ることはできず、庭を見学していると、大きな樹木や石が目についた。幼少時にこの木に登ったり、石の上で遊んでいたんだなと思う。
 この日の見学はこれで終わり、ホテルへと向かった。そして、大和田塾頭から2つ目の課題を提示された。それは、2日目(10日)に見学する松陰神社で、吉田松陰がなぜこれ程までに弟子達から敬われたのか。松陰の何がそれ程までに優れていたのかを見つけろという事だ。
 翌日、私達は松陰神社へと向かった。立派な鳥居をくぐり、境内に入る。思った以上に広くて驚いた。松陰歴史館は入ってすぐ左側にある。松陰の生涯をろう人形で再現してくれているのだ。松陰に関しては、全体的に資料が少ないということを大和田塾頭から聞いていたので、一つ一つ、よく考えながら見学した。
 吉田松陰は文政13年(1830年)に生まれた。幼少の頃から厳格な叔父による教育を受け、大きく成長していった。書を愛し、勉学を愛する松陰は19歳にして早くも独立した師範になる。卓越した才能を発揮する松陰。しかし、そんな彼を驚かせる事件が起こる。アヘン戦争である。大国と信じ、文化の拠り所としていた清国がイギリスに破れたことには衝撃を受けただろう。これを期に、松陰は世界に目を向けて行動を開始する事になる。全国各地を見て歩き、様々なものを吸収していく。特に、佐久間象山と黒船との出会いは、松陰の運命を大きく変えた。象山の勧めもあり、同志の金子重輔と海外渡航を企てるも失敗。二人は囚われの身となり、結局萩の牢獄に幽閉された。松陰は、ここで知識を蓄え思想を綴った。猛烈な勢いで勉学に励む松陰に、囚人達も次第に魅かれ始め、話を聞くようになる。そして、囚人だけではなく、なんと牢番や司獄官までもが松陰の講義に耳を傾けるようになった。誰にでも分け隔てなく接するその姿勢が、松下村塾の基礎へと広がっていく。
 松陰は出獄後、萩で松下村塾を開く。師弟共に同行し、共に学ぶという独自の教育で優れた人材を多数輩出することになる。
 そして、私はここに大和田塾頭の答えを見つけた。当時の教育は「三尺離れて師の影を踏まず」といわれる程、生徒と教師の距離が長く、また身分の低い者は入学さえ出来なかった。一方、松陰の松下村塾は礼儀作法を簡略化し、生徒と教師の距離を縮め、また身分に関係なく、志さえあれば誰でも入学出来るのだ。弟子達と学べた期間はわずか2年そこそこ。このわずかな間に、あれ程弟子達に敬わられたのは、共に助け合い、共に学んでいくというその教育姿勢が弟子達の心を掴んだのではなかろうか。誰にでも分け隔てなく接するというその心こそが、松陰の優れているところだと考える。
 その後、倒幕以外に日本国を救う道はないと常に説く松陰は再び投獄される。世は安政の大獄の風が吹き、松陰は間もなく江戸に搬送される。死が間近に迫っている事を感じた松陰は、「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちるとも 留め置かまし 大和魂」という、有名な書き出しで始まる「留魂録」を書き上げた。それは、死を目前にした人の心の乱れもない、堂々とした手記であったとされている。
 そして、安政6年(1859年)10月27日、松陰は30歳の生涯を終える。

 松陰歴史館を出た私達は、境内の奥にある松下村塾を見学した。中には弟子達の写真が飾ってある。倒幕で散った者・新しい国作りに奔走した者と様々だった。
 今回の偉人館巡りでは、人に影響を与える凄さと素晴らしさと難しさを学んだ。松陰が倒幕運動に参加していないにもかかわらず、神社まで作られてその功績を後生まで残しているところに鑑みえる。また、松陰の教えは政経塾と合致するところが多い。例えば、松陰は読破した書物の感想を文にせよと教えている。これは、政経塾の文章に残すという教えと同じだ。

 萩の美しい町並みと、吉田松陰。維新の魂を感じつつ、私達は帰路へとついた。

平成15年8月10日
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