第 251 号 |
萩・津和野 偉人館巡り |
6月29日(土) ~ 30日(日)、1泊2日の、偉人館巡りに参加しました。何故、萩・津和野になったのか? 塾生の深川さんが、以前から松下村塾に行ってみたいと言っていたので、偉人館巡りのスケジュールが決まり、私は、3度目の訪問になります。一度目は、姉妹塾でもある韓国・機械の学塾と訪問し、二度目は、他の塾生と訪問しました。前回の二度目とも暑い時期の訪問でしたが、今回も何故か暑い中の訪問となりました。 今回の訪問は、一日目=秋芳洞・萩城下町・吉田松陰歴史館・松下村塾。二日目=山陰の小京都・津和野探索等、とてもハードスケジュールだった。 29日(土)、朝7時に塾を出発 ⇒ 山口へ ⇒ 昼前に秋芳洞に到着。秋芳洞は、日本屈指の大鍾乳洞、国の特別天然記念物に指定されていています。古くから地元の人々に瀧穴と呼ばれ知られていました。明治40年頃より、イギリス人のエドワード・ガントレット氏により洞内の探検や調査がおこなわれ、初めて海外に紹介されました。瀧穴は大正11年3月には国の天然記念物に指定され、今まで大切にまもられてきました。大正15年、昭和天皇行幸の際ご覧になり、「秋芳洞(あきよしどう)」という新しい名前を賜ったそうです。洞内のコースは、約1km(総延長8.9km)で、正面入り口から黒谷入口までの高低差は約40mほどあります。温度は四季を通じて17℃と一定しています。洞内には百枚皿や黄金柱などと、地下水によって造り出された神秘的な空間、洞くつ入口を潜ると、青天井・百枚皿・広庭(洞内富士)・千町田・傘づくし・大黒柱・千畳敷・黄金柱・くらげの滝のぼり等とたくさん見ることができ、また洞くつ内の天井や壁、水の中には体長1~10mm前後の小動物が発見できる。洞窟性動物の多くは、特殊な環境に適応しながら生活してきたために形態的にも生態的にも大きな変化を遂げていて、そのほとんどは、目が退化して体が白いのが特徴。※上記文・資料参考 秋芳洞は「秋芳洞冒険コース」「景清洞探検コース」等もありました。冒険と探検コースを体験してみたかったですが、私には無理でした。是非皆さん体験してみて下さい。新たな発見があるかも……。 次に向かったのが、萩城下町です。萩城下町は国の史跡に指定されて、武家屋敷や町屋が軒を連ねていて、表通りの呉服町筋は御成道で、この通りには萩藩御用達の豪商菊屋家、幕末の商家久保田家などの家々が残っています。表通りから南に向かって菊屋横町、伊勢屋横町、江戸屋横町と呼ばれている小路があり、高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅やなまこ壁の土蔵、門、土塀などが並んでいます。※資料参考 城下町に着いて、路地を進んでいくと、まず初めに高杉晋作立志像と出合いました。以前訪れた時にはありませんでした。高杉晋作誕生地の斜め向かいにある晋作広場に、平成22年に高杉晋作立志像が建てられ、また、この高杉晋作像は、松下村塾に通っていた20歳頃をイメージした像だそうです。 次に、高杉晋作生誕地「高杉晋作旧宅」を見学。高杉晋作の誕生地は、菊屋横町の一画にあり、当時の間取り図によると部屋数が20以上ある広大な武家屋敷でした。庭には石のほこらが祀られていて、それは晋作が住んでいた頃のものだそうです。敷地内には、産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑などもあります。(今では3分の1位の広さに縮小されています) 高杉晋作は、萩藩大組士高杉小忠太の長男として天保10年 (1839) に生まれ、安政4年(1857) に松下村塾に通い始め、松陰からは、有識の士として将来を嘱望され、松陰の死を乗り越え、江戸修行や自ら試撃行と称した東北修行の旅で松陰の師である佐久間象山らとの出逢い成長しました。文久3年 (1863) 5月、萩藩は下関海峡で、攘夷の火蓋を切りましたが、四国連合艦隊の攻撃を受け、藩兵力の弱体ぶりをさらけ出す結果となり、この危機打開のため翌6月に奇兵隊を結成しました。少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵を悩まし、常に奇道をもって勝ちを制することから奇兵隊と呼び、身分を中心に編成された封建的軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊でした。奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たしました。 次に、菊屋住宅を見学。菊屋家は、慶長9年 (1604) 毛利輝元の萩入国に従い山口から萩に移り、城下の町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領しました。また、阿古ヶ浜に藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたので、阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称する等になったそうです。その後、代々大年寄格に任命され、藩の御用達を勤めていた。屋敷は度々、御上使の本陣を命ぜられ、その地御究場所、恵民録役所等、しばしば藩の御用宅に借り上げられた。従って先祖代々「我家は私有であって然様でなし」と常に御用屋敷としての対面整備に配慮して、屋敷建物を大切に維持してきたことから、全国でも最古に属する町家として重要文化財の指定をうけました。菊屋家は、数多くの蔵や付属屋が建てられています。敷地内に、主屋・本蔵・金蔵・釜場・米蔵の5棟が国の重要文化財に指定されて、菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示され、御用商人の暮らしぶりを見ることができます。 菊屋を出て城下町を歩んでいくと、円政寺を発見。円政寺は真言宗の寺院で、建長6年(1254) 山口に創建された大内氏代々の祈願所だった。慶長9年 (1604) 頃に山口から移転され、毛利氏の祈願所となりました。境内には十二支彫刻の欄間で知られる金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる点で貴重な寺といえます。伊藤博文が11歳の頃、住職恵運に諭され、読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃にはよくここで遊んだといわれています。※資料参考 城下町を出て次に向かったのが、吉田松陰ゆかり地“松陰神社”へ向かいました。松陰神社は、吉田松陰を祭神とする神社で、明治23年 (1890) に松陰の実家杉家の邸宅内に土蔵造りの小祠を建て、その中に祭神生前愛用の赤間硯を御霊代として祀ったのが始まりです。明治40年に萩城内にあった毛利家守護神宮崎八幡の拝殿を移築して本殿し、同時に県社に列した。北隣にある摂社松門神社は、松陰神社創建当時の土蔵造りの本殿であり、松下村塾出身の松陰門下生を祀っています。境内には国指定史跡の松下村塾、吉田松陰幽囚の旧宅などがあります。 まず、松陰神社の境内にある吉田松陰歴史館を見学。この歴史館は、吉田松陰の生涯を蝋人形で再現されていて、説明版と音声ガイド付きで、吉田松陰の生涯をわかりやすく紹介されています。 次に、松下村塾を見学。松下村塾とは、長州藩の兵学師範だった吉田松陰がアメリカ密航未遂事件により故郷に送り返され、謹慎の身で開いていた私塾です。塾生の大半は下級武士の子か庶民だったですが、やがてこの塾から久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など幕末から明治にかけて活躍する出世頭がたくさん出ています。 安政4年(1857) に松下村塾に通い始めたとありますが、高杉晋作は、藩校・明倫館では、優等生でありながら、何か物足りなさを覚えていた晋作は、親に内緒で入門と資料にありました。身分にとらわれず農民や若者たちと奇兵隊を結成した晋作の柔軟な考え方、権力に固執しない価値観はこの塾で培われたと思われます。 松下村塾の建物は、木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、8畳一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成り、国の史跡に指定されています。次に吉田松陰幽囚ノ旧宅を見学。この旧宅も国指定の史跡、木造瓦葺き平屋建て214㎡、幽囚の室は東側にある3畳半の一室で、吉田松陰は、安政元年 (1854) 3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられた。安政2年に釈放となったが、父杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念しました。後にここで門人に孟子や武教全書を講じるようになり、やがて松下村塾で教えるようになりました。 2日目30日(日)、この日は、前日萩を見学した後、津和野に入り床に就き、疲れた身体にムチを打ち、津和野を探索。宿泊した宿は、殿町通りと呼ばれる通りにあり、この殿町通りは、かつて家老屋敷がかたまっていたところです。なまこ塀と堀割に泳ぐ鯉など、津和野のシンボル的スポット。多胡家は亀井氏11代にわたって家老職を努め、藩財政に大きく貢献した家柄です。瓦葺きで、間口4m、長さ26mの立派な武家屋敷門が今も残っていて、朝10時に宿を出て、宿の駐車場に車を止めらさせてもらい歩いて探索することにしました。路地を歩いていると説明のとおり、掘割には、たくさんの鯉が泳いでいました。その鯉を眺めながら、最初に向かったのが、津和野カトリック教会です。この教会は、1931年(昭和6) に建てられたゴシック建築の教会・礼拝堂の中は畳敷きになっていて、窓はステンドグラスでとても鮮やかです。次に向かったのは、養老館です。ここは西周や森鷗外などの多くの人材を輩出した藩校跡です。今は津和野町民俗資料館として利用されていて、江戸~大正時代の武家や農民の生活用具、衣装などの資料がありました。養老館を出て、太鼓谷稲成神社へ向かいました。ここは是非行きたいと大和田塾頭が言っていた場所です。この太鼓谷稲成神社は、日本五大稲荷のひとつである太鼓谷稲成神社です。商売繁盛・開運・厄除け・福徳円満のご利益を求め多くの参詣人が訪れます。山腹には成就御礼に奉納された約1,000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなっています。朱塗りの鳥居を登っていくと本殿へ辿り着きますが、前日の疲れもあった為、途中で引き返し、本殿までは行けなかった。次に向かうのは、葛飾北斎美術館でしたが、宿から数百mの場所に美術館はあるのですが、歩いた道を戻り、車に乗り美術館へ。江戸時代末に活躍した浮世絵師「葛飾北斎」の作品、肉筆画・版画・北斎漫画などを展示しています。次に向かったのは、乙女峠マリア聖堂へ。マリア聖堂は、その愛らしい名前とはうらはらに、隠れキリシタン殉教の地である乙女峠に建つ聖堂です。昭和26年建設。キリスト教が厳禁だった明治元年に長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンは、津和野藩の改宗のすすめに応じず、ついに拷問によって36人が殉教の道を選びました。その際、日本で唯一、聖母マリアが降臨された地といわれています。次に向かったのは、森鷗外旧宅。森鷗外旧宅は木造平屋建て、瓦葺きの簡素な造り、日本を代表する文豪・鴎外が幼少時代を過ごした家です。4畳半の彼の勉強部屋や、藩医の家らしく調剤室も残っています。 以上で、2日間のスケジュールは無事終了しました。たくさん訪問しましたが、次回もしも訪問することがあるのならば、時期を選んで行ったほうがいいと思う。暑い時期を避け、春か秋に行ったほうがいいと思った。暑さと疲れのためゆっくり観察できなかったのが正直です。遠くまで時間を掛け、せっかく行ったのだから、見学できる箇所は見学しようと言うのは、当たり前の事ですが、せっかく行くのなら時期を考えもっと時間のゆとりをもって、欲を言えばきりがないが、今回のスケジュールなら2泊は必要でした。次回もし行くことがあれば、2泊を予定し、ゆっくり行きたいです。 |
平成25年6月30日 |
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