第 258 号
ジョン万次郎資料館訪問
 24日朝9時より土佐清水市の新しく出来たジョン万次郎資料館に出かけました。
 ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)11日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。
 9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていました。
 天保12年(1841年)、14歳だった万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではありませんでした。それに、帰国できたとしても命の保証はありませんでした。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、万次郎はそのまま船に残ることにしました。万次郎を気に入っていたホイットフィールド船長は、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れました。そうして万次郎は、アメリカへと渡りました。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。そして、万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。
 アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励みました。
 卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニア。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ。そして、日本に向けて出航するのでした。
 嘉永4年(1851年)、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐への帰国となりました。帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍が立ち会う土佐藩の尋問を受ける。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」である。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くある。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われる。
 高知城下の藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受ける。万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。
 万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命されました。しかし、やがて解任。スパイ疑惑により、ペリーの通訳からも外されてしまいました。しかしながら陰では日米和親条約の締結に向け、尽力していました。
 万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
 その後、捕鯨活動、教授就任、海外渡航などめまぐるしく動き続けます。
 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。そして明治31年(1898年)、71歳で万次郎はその生涯を終えました。

 万次郎会館を出て、中土佐町久礼に有る、大正市場に行きました、此の大正市場の始まりは明治時代の間か頃、漁師のおかみさん達が夫や息子の取って来た小魚を売るように成ったのがきっかけです。大正4年市場周辺が大火災に見舞われ時、当時のお金にして三百五十円が復興支援費として大正天皇より届けられ,これに深く感謝した町民はそれまでの「地蔵町」という町名を改め「大正町」と命名しました。
 市場は魚が多いですが、果物、野菜と多彩な品物が売られています。皆、カツオのタタキや、刺身、カマスなどを思い思いに買い込んで帰路に向かいました。
平成25年8月24日
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