第 259 号 |
ジョン万次郎資料館訪問 |
「研修NO1」 ◎ジョン万次郎の魅力 ●ジョン万次郎は、14才の時、漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着、カモメ等を食べながら飢えをしのぎ143日間後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助され「九死に一生を得る」等の貴重な経験をした。 ●船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られ、アメリカ本土に渡り、ホイットフィールド船長の養子となって英語・数学・測量・航海術・造船技術学び近代捕鯨技術等を身につけた。 ●日本へ帰国後、土佐藩の絵師・河田小龍(川田維鶴)に漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』にまとめさせると共に、アメリカの様々な文化や西洋知識の見聞状況を薩摩主・島津斉彬、吉田東洋、後藤象二郎、岩崎弥太郎、勝海舟、坂本竜馬、福澤諭吉などに教え、激動の幕末から明治における影の重要人物である。 ●黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられる等幕府にも大きな影響を及ぼした。 ~その他~ ・『ABCの歌』を日本に初めて紹介した。 ・日本で初めてネクタイをしたとも言われる。 ・初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。 ・日本人で初めて近代式捕鯨に携わった。 ・日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった。 ・『新アメリカ航海術』を和訳している。 ◎生い立ち、漂流と渡米 ○文政10年(1827年)、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男に生まれた。 ○天保12年(1841年)、ジョン万次郎14才の時、漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着、カモメ等を食べながら飢えをしのぎ143日間後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助され、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られ、アメリカ本土に渡り、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らす。 ○1843年(天保15年)にはオックスフォード学校、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。 ◎捕鯨生活と帰国 ○1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。 ○1850年(嘉永3年)5月、日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、金鉱にて金を採掘する職に就く。そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。 ○1850年12月17日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航する。 ○1851年(嘉永4年)2月2日、薩摩藩に属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られ、海外から鎖国の日本へ帰国した理由で薩摩藩の取調べを受る。 ○薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、特に藩主・島津斉彬は、自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問、斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。 ○薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受け、長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された。 ○その後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。 ◎帰国後の活躍 ○1852年(嘉永5年)、帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命され後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。 ○1853年(嘉永6年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。その際、万次郎は江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『日米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働き、藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、もともと士分でない万次郎が、アメリカ人とも臆することなく対等に交友することをやっかむ者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは万次郎1人だったため、ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。 ○1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮をれなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。 ○1861年(文久元年)外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸で行った。 文久2年、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語の教示を行っている。 ○1866年(慶応2年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入、慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。 ○1869年(明治2年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命され、1870年(明治3年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機、帰国後に軽い脳溢血を起こし、数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。 ○明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷ついている。 「研修NO2」久礼大正町市場 ○起源は明治の中頃。大正時代の大火で焼失後、大正天皇から復興費が届けられたのを機に、通りを大正町と改名、以来大正市場と呼ばれ、地元でとれた新鮮な魚が安く買うことができる。 ○大正町市場が一番にぎわうのは、午後1時から午後2時過ぎに行くとその日のお昼前に水揚げされたばかりの朝どれ・昼どれの新鮮な魚が並ぶからです。 今回は、午後4時過ぎて閉店間際に訪問したためのこり漁がすくなかったため機会があれば再度行ってみたい。 |
平成25年8月24日 |
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