第 273 号 |
自由民権記念館訪問 |
21日(土)、偉人館巡りの為、高知市立自由民権記念館を訪問しました。毎度ながらですが、自由民権記念館の訪問は姉妹塾でもある韓国機会の学塾の皆さんや他の政経塾の塾生などと幾度となく訪問させて頂いております。 自由民権運動とは… 明治維新によって新しい時代となり、このあたらしい日本をどういう国にしていくのか? このことを真剣に考え、明治政府の目指す方向とは違う道を構想した人々が「明治第二ノ改革」すなわち自由民権運動を呼びかけ、これに賛同する多くの人々が運動に参加した。政府が政権を朝廷に返すと、16才の若い明治天皇のもとに新しい政府がつくられました。中心になったのは、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允など薩摩藩や長州藩の出身者と、公家の岩倉具視らでした。1868年、新政府は国家の方針をしめした五か条の御誓文を発表し、江戸を東京とあらため、年号を慶応から明治にかえた。その後、天皇が東京を日本の首都にしました。そして、政治や社会の仕組みをあらためていきました。このように物事をすべて改めることを維新といい幕末から明治にかけての大きな改革を明治維新という。 1874(明治7)年、薩摩や長州出身者が中心の政治に反対する板垣退助らは、国会をつくり、国民から選ばれた議員による政治を行うべきだと政府に要求。政府のやり方に不満を持っていた多くの士族や農民たちに支持され、全国各地に国会開設を求める運動がまきおこり、これを自由民権運動といいます。 政府は、自由民権運動を抑えようと演説会や出版物などを厳しく取りしまりましたが、その勢いはおとろえませんでした。1881年、政府は10年後に国会を開く事を約束する事になります。 1882年頃から、全国に不景気が広がり、生糸や米の値段が下がり、暮らしに困った農民は、高利貸から借金をしましたが、返せなく田畑を失い苦しむものが多く出ました。農民たちは自由党員と結んで秩父困民党を結成。高利貸しに借金の返済延期をたのみ、また郡役所に税金の減額を願い出ましたが、とりあげられなかった。1884年11月、ついに1万人の農民が立ち上がり、郡役所や高利貸しの家をおそい、証文を焼きはらったが、政府の軍隊によってしずめられ、指導者たちは死刑になった。 自由民権運動が高まると、自分たちの手で憲法をつくろうとする動きが各地で起こりました。人々は欧米の憲法を研究し、独自に憲法案をつくり発表した。その代表的なものが、高知県出身の民権家、植木枝盛がつくった「東洋大日本国国憲按(案)」、自由の権利や人権の保障などがもりこまれていました。ほかにも40以上の憲法案が残っています。 憲法をつくり国会を開こう、税金を安く、言論や集会が自由な世の中にしようと彼らは訴え、運動は全国に広がり、日本で最初の国民的な民主主義運動になり、その中で「自由は土佐の山間より」と言われるように、土佐の人々は大きな役割を果たしました。 自由民権記念館の資料室に入ると、大きく「自由は土佐の山間より」と書かれてあり、この地から近代日本の歴史に土佐の自由民権運動が大きな役割をはたしたのだと感じ取れます。 坂本龍馬、中岡慎太郎をはじめ土佐の勤皇の志士達の偉人館めぐりを多くかさねていますが、土佐からこの様に多く日本を変える志士達が多く生まれたのか、太平洋や山に囲まれ、閉鎖されたと言っても良い地域から、日本とゆう国が大きく変わる時代を築き上げてこられたのか、塾で学んでいるなかで、言えることは人脈の大切さ、そして、大きな志、行動力、資金力、そして一番大事なのは多くの志を同じくした仲間達、これらがそろえば今の地域、日本国、ひいては世界を変える力が湧き上がるのではないかと考えます。今の政治家は、私利私欲に捉われることなく、ほんとうに、国民を一様に愛し、その国を真に繁栄させようということに力強い信念を持っているのか、と疑問を抱いています。また、自分の周り、家庭、働いている職場に置き換えても、同じ事が言える、再度、自分に問いかける訪問となりました。 |
平成26年6月21日 |
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