第 289 号 |
中岡慎太郎館“調べ学習” |
『 はじめに 』 この度、私、松岡秀明は東京より帰郷後、3月よりこの四国政経塾に入塾となりました。そして、4月23日(土)初めての偉人館巡りという運びとなり、中岡慎太郎館へ見学が実現しました。 これまでの中岡慎太郎のイメージとは、ドラマや映画から坂本龍馬の親友か子分のような存在で、特に歴史上何をした人なのかよく分からないという人物でした。ところが、見学してみるとその印象が一変しました。 以下に、中岡慎太郎(以下、慎太郎とする。)について思ったことや気付いたことを記してみたいと思います。 《 慎太郎は何をした人物か 》 慎太郎は坂本龍馬とともに、幕末の土佐の双璧といわれた人物でした。高校までの教科書には、精々、中岡慎太郎と坂本龍馬で薩長同盟を成功させたと記載されている程度でした。 しかし、行ったことといえば、1866年1月の薩長同盟成功の他に、1867年7月に陸援隊を結成したこと、同年10月に大政奉還の実現の後、自身が仕掛け人を務めたが、その眼で見ることが叶わなかった王政復古の大号令、歴史の節目のたびに執筆された計4回の論文「時勢論」など、小さな事まで含めると大変な活躍を影で行った人物ということが分かりました。 《 慎太郎の生い立ち 》 1838年4月、高知城下から西へ約60km離れた土佐国安芸郡北川郷柏木村(現 高知県安芸郡北川村柏木)の大庄屋・中岡家の長男として誕生しました。 大庄屋とは地方において、中小の庄屋を束ねる有力な庄屋で、中岡家は名字帯刀を許された郷士でした。 大庄屋の仕事とは 一. 様々な法令を村人に知らせること。 一. 親孝行をする人や長生きしている人にご褒美を出す手続きを行うこと。 一. 洪水や火災など、非常事態が起こったとき対応すること。 一. 罪人や不審者に対する注意、遍路など差配すること。 一. 田地の売買や質入れする時の手続き(登記事務)を行うこと。 一. 手紙や荷物の受付けと発送する人夫の手配(郵便運送事務)を行うこと。 一. 年貢米の取り立てや年中行事で必要な金銭の取り立て(税務)を行うこと。 一. 村人からの控訴や罪人の取り調べ(裁判)を行うこと。 (中岡慎太郎館より) という、土佐藩と村民をつなぐ仕事でした。 大庄屋という地位は、13ヶ村・千数百人という村民を束ねるという大変な役割がありました。従って、慎太郎は将来、立派な大庄屋の跡取りとして英才教育を受けなければなりませんでした。 慎太郎が4歳のとき、父小伝次は妻と娘を客間に呼び集め、大庄屋の職を継いでもらうため、光次(慎太郎の幼名)の躾は私がやるから、皆はいっさい世話をやくなと言い、あくる日から、中岡家近くの禅寺「松林寺」に慎太郎を一人で通わせ、読み書きと書を学ばせました。 慎太郎が7歳になると、野友村の島村策吾塾で四書を学ばせ、16歳では間崎滄浪に学問を学びに行きました。さらに、土佐藩の藩校・田野学館に入学し、地域の秀才たちと交流を持って勉学に励みました。 そして慎太郎が17歳のとき、後の土佐勤王党党首・武市半平太と田野学館で運命的な出会いをしました。翌18歳で、武市の道場に入門し、同年、武市は藩より臨時御用として江戸での剣術修行を命じられ、慎太郎も帯同しました。その後、武市は桃井春蔵に入門し、同じく慎太郎も同道場で剣術修行に励みました。 帰郷し、大庄屋見習いとなる 1857年、慎太郎が20歳になると、人生の転機が訪れました。江戸で修行中の慎太郎に、突然、父の病の報が届きました。慎太郎は直ぐに帰郷し、大庄屋である父親の補佐として大庄屋見習いを始めました。 このころ、北川郷では地震、台風、伝染病の流行りにより村民の生活は困窮していました。慎太郎は中岡家の山林や田畑を担保にして、近隣の豪農から米、麦を借り入れ村民に配給しました。 また、慎太郎は藩に対して村民の窮状を訴え、援助を陳情し、800両の借り入れに奔走しました。また慎太郎は、農作地の開墾による生産量の増大を図り、城下から取り寄せた優良品種の作物種子を無償で村民に分け与えたり、耕作指導や貯蓄奨励、共同倉庫建設を推進しました。現在では、調味料として塩の代用となるゆずの栽培を普及させたことは余りにも有名です。 このように慎太郎の青年期の村政への関わりが、民百姓、市井の無辜なる人々への思いを強くさせ、同時に徳川家世襲の政治体制、社会制度の疲弊と矛盾を痛感して行きました。 《 土佐勤王党加盟 》 1861年、慎太郎が24歳のとき、武市が尊王攘夷の実現を目指すべく、土佐藩中屋敷にて秘密裏に土佐勤王党を結成しました。慎太郎もこれに加盟したいと考えましたが、大庄屋見習いの職から離れる訳にはいきませんでした。そこで慎太郎は、新井竹次郎が親戚である新井林左衛門の養子になって、北川郷の村政に携わるように説得し、その職を辞しました。そして、慎太郎は勤王党に坂本龍馬や岡田以蔵ら192名とともに加わることが出来ました。 翌年には慎太郎は、長州藩の久坂玄瑞、山県半蔵らとともに信州松代藩に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論するなど藩外においても志士活動を展開しました。 《 脱藩 》 しばらく土佐勤王党は穏やかに活動をしていたものの、急進的な性格を露わにし、藩内、洛中において反対派要人を天誅と称して暗殺をするようになってしまいました。 1863年、慎太郎が26歳のとき、京都で長州藩をはじめ、尊攘派公家衆らが洛外へ追放させるという政変(8月18日の政変)が起こりました。土佐藩内でも尊王攘夷派に対する弾圧が始まり、土佐勤王党は武市を始めとして多くの者が捕縛され、切腹や、処刑、獄死しました。 危険を察した慎太郎は土佐藩から脱藩し、同年9月には長州藩に身を寄せました。そこで、三田尻に都落ちしていた「五卿」と呼ばれた三条実美(後の王政復古大号令の要人)に出会ったり、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通との知己を得るなど、各藩の尊攘派志士たちとの緻密な人脈を構築して行きました。 翌年、慎太郎が27歳のとき、忠勇隊員として禁門の変、下関戦争を長州側で加わりました。その結果、長州尊攘派の敗北という現実を突きつけられた慎太郎は、単純な尊攘主義の限界を知りました。そして、武力倒幕による政治体制の一新に向け、雄藩連合の締結を目標とするようになりました。それは犬猿の仲である薩摩と長州の和解と同盟でした。 そして薩長同盟実現のため、薩摩・長州両藩の有力者である西郷隆盛、桂小五郎の信頼を得ていた慎太郎と坂本龍馬が仲介することになりましたが、第一回会談は不発に終わってしまいました。 《 薩長同盟の成立 》 再び、慎太郎と坂本龍馬が調整に奔走することによって、1866年1月、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟が締結されました。裏書人は坂本龍馬によって行われ、ここに二大雄藩が手を携えることになりました。 かつて慎太郎は、1865年の第一回論文「時勢論」で、「これからの時代、天下は薩摩・長州の二藩の命に従うようになる。」と予言していました。 《 陸援隊を結成 》 1867年、慎太郎が30歳のとき、倒幕運動のために陸援隊を組織し、初代の隊長に就任しました。隊士は総勢70名以上にも及び、薩摩藩から派遣された洋式軍学者・鈴木武五郎から調練を受けるなど、実践向けの訓練を行っていました。そして同年10月に、穏健派による大政奉還が実現しますが、慎太郎はあくまでも陸援隊は武力倒幕を主眼に置いて組織作りをしていました。 しかし、鳥羽・伏見の戦いが起こる前に、慎太郎は坂本龍馬と共に京都・近江屋で暗殺されてしまったために陸援隊としての大きな活動は出来ませんでした。 《 王政復古の大号令 》 1866年1月の薩長同盟により、幕府を倒すことが夢ではなくなりました。その後の情勢が倒幕によるのか、穏健派の大政奉還が実現するのか不透明のまま、どちらになっても天皇中心の国家の樹立が必要でした。しかし、天皇を支える実力のある公家の存在がありませんでした。そこで慎太郎は岩倉具視と会い、岩倉が天皇を政治の中心とする国家樹立を目指していることを知り、京都から大宰府へと引き返し、三条実美とも会いました。王政復古による国造りは、対立していた三条実美と岩倉具視の結びつきがなければ実現不可能と説得しました。岩倉に好意を抱いていなかった三条も、慎太郎の熱意に打たれ、岩倉に協力を求める手紙を書いて慎太郎に託しました。これを受けた岩倉も三条と和解し、協力することに同意しました。慎太郎は、公家同士の連携も成立させました。 翌年12月、倒幕派による王政復古の大号令が発せられました。 《 近江屋事件 》 同年11月、慎太郎は王政復古の大号令が発せられ、天皇を政治の中心とする新たな国家の樹立を見ることなく、坂本龍馬と共に京都・近江屋で襲撃されてしまいました。坂本龍馬は即死、慎太郎は2日間ケガの治療を受けましたが、その甲斐なく絶命しました。余りにも早すぎる死でした。 《 まとめ 》 慎太郎は幼少期から将来を約束され、大変な英才教育を受けて、村民の上に立つべく大庄屋の長として、その素養を身に付けていたということです。そして人間としての土台をしっかり作り、大庄屋見習い時代に土佐藩と村民の間に立つ仲介・あっせんという役割を4年間みっちり取り組み、その後の慎太郎の活躍をうかがわせる交渉力が身に付いたんだと気付きました。今回の偉人館巡り・中岡慎太郎館見学で、いかに人間が実行し、経験するということが大事なことなのかが良く分かりました。 |
平成28年4月23日 |
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