第 292 号
偉人館巡り“調べ学習”
 はじめに
 5月の偉人館巡りは、先月に引き続き高知県だった。今回は時間の許す限り、3箇所の施設を見学することが出来た。見学順に、歴史民俗資料館、自由民権記念館、坂本龍馬記念館と龍馬銅像だった。 以下に、調べ学習の成果をそれぞれ記して見たいと思う。

《 歴史民俗資料館 》
長宗我部元親
 長宗我部家は古代から続く名家で、出自は渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したことが始まりだといわれている。その系譜最後の国親・元親・盛親3代に注目し、最も興隆を極めた2代目の元親にスポットが当てられていた。

元親の家督相続
 1539年、元親は岡豊城主国親の嫡男として誕生した。1560年5月16日、22歳のとき遅い初陣となったが、長浜の戦いに出陣。元親は槍の名手として勇猛果敢な活躍を見せ、たちまち武名が広まったが、その僅か1箇月後、父の国親が急死し、元親が家督を継がねばならなかった。

土佐国統一
 この頃、土佐は一条家を筆頭に、津野家、大平家、吉良家、本山家、安芸家、香宗我部家が勢力を争っており、元親は農民や地侍などを半農半兵(一領具足)として用いて戦力を増強し、勢力拡大を図っていた。
 1563年、吉良家が滅ぶと、長弟・長宗我部親貞に継がせて、吉良親貞と改名をさせた。1566年、大平権頭は、一条兼定と本山茂辰の挟撃を受けて積善寺に自刃すると、後に吉良親貞が計略をもって蓬池城を奪い、戸波城へ逃れた城兵を追って、戸波城も落とした。土佐の西部では中村御所の一条兼定の協力を得て、1568年に本山茂辰を降伏させると、翌年7月には安芸城主・安芸国虎を攻略し、実弟の香宗我部親泰を安芸城に入れた。津野家当主・勝興は、家臣に促されて元親に臣従した。津野勝興の養子として三男・長宗我部親忠を送り込み、津野親忠として当主に据えた。1574年、元親は中村御所の一条兼定を豊後国(大分)へ追放することに成功。翌年、同国より戻った一条兼定が伊予宇和島で挙兵し、元親は四万十川の戦いで勝利した。 こうして、小さな領主に過ぎなかった元親は、ようやく土佐国を統一することが出来た。このとき36歳。

四国統一
 土佐国統一後の元親は、勢力を拡大していた織田信長と同盟を結び、伊予・阿波・讃岐へ侵攻して行った。1578年には、阿波の白地城を攻めて大西覚養を討ち、讃岐へ侵攻すると、1581年香川之景との和睦条件として、次男・長宗我部親和を養子として送り込み、香川親和と改名させた。阿波では1579年、重清城を奪って十河勢に勝利し、三好奈俊を岩倉城に追い詰めると、嫡子・三好利忠を人質にとり降伏させた。伊予では久武親信が1579年に岡本城攻めで土居清良に討ち取られたりしたが、敵方の有力家臣・金子、妻鳥、石川等を味方にして平定した。 こうして1580年、阿波・讃岐・伊予をほぼ手中に治めることに成功した。

本能寺の変
 織田信長は、元親のこれら急な勢力拡大に不快感を示し、1580年に元親に対して臣従を迫り、土佐・阿波半国のみの領有へと追いやろうとした。しかし、元親はこれを拒否。そのため、織田家とは敵対関係となった。
 1582年、織田信孝を総大将とした織田勢の四国攻めが準備され、元親は危機に陥ったが、明智光秀の家臣・斉藤利三宛の書状で、織田家に恭順する意向を示した。四国攻めは、6月2日から大坂で始まる予定だったが、この日に明智光秀による本能寺の変が勃発し、織田勢の四国攻めは中止された。
豊臣秀吉との対立
 織田家が混乱している間に、元親は宿敵・十河存保を1582年、中富川の戦いで破ると阿波の大半を支配下に置き、勝端城攻めにも勝利して阿波を完全に平定した。
 十河存保は豊臣秀吉を頼ったため、元親は柴田勝家を支援するも、1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れて滅び、豊臣秀吉は四国攻めを準備することになった。
 1584年、豊臣秀吉と織田信雄、徳川家康が対立して、小牧・長久手の戦いとなったとき、元親は徳川勢に協力して豊臣勢の仙石、小西が高松などに侵攻すると撃退した。そして、ついに十河城を攻略して讃岐を平定した。
 しかし、紀州征伐を行った豊臣秀吉は元親に対して、伊予・讃岐の返納を要求した。元親は伊予国の割譲だけで、豊臣家と和睦する道を模索したが、豊臣秀長を総大将とする10万余の大軍が四国に向けて出陣した。
 豊臣勢は讃岐・伊予・阿波へ三方面から侵攻したため、相次いで城を奪われ、元親は1585年夏に降伏した。元親は上洛し、豊臣秀吉に謁見し、臣従を誓った。
 その仕置きは、阿波・讃岐・伊予を没収されたが、土佐一国だけは安堵となった。

長宗我部盛親の家督相続
 1586年、元親は豊臣秀吉の九州征伐に嫡男・長宗我部信親とともに従軍したが、四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、戸次川の戦いで壊滅状態になり、全軍が大混乱し、嫡男・長宗我部信親を失う。
 1588年、元親の本拠地を大坂城へ移転。家督を次男・香川親和や三男・浅野親忠ではなく、四男の盛親に譲ることを決めた。
 1599年4月10日、元親は四男の盛親に遺言を残し、5月19日死去。享年61歳。

思ったこと…
 土佐国を統一するとき、、元親の対外工作は養子縁組を重視し、それまで激しく争ってきた勢力の余力を上手く利用し、自勢力に取り込んで行くやり方は、豊臣秀吉や毛利元就などのような大大名の気風を備えた堂々たる手法だったと思う。
 織田家との同盟時代では、元親の急な勢力拡大に恐れをなした信長の理不尽な要求は速やかに呑むべきだったとも思う。要求を拒否するなど、(最終的には恭順の意向を示したが、四国攻めは続行された。)織田家という強大な勢力の前で採る戦略ではなかったからだ。
 秀吉との対立の時は、積極的に豊臣政権に反対する勢力と通じ、二正面作戦を採るべく江戸の徳川家康などの大大名等と手を組むなどという戦略もしたたかだったと思う。
 しかし、その後の対応が良くなかった。特に新たな手を打つこともなく、事態を漫然と静観してしまったのだ。そして、豊臣勢の侵攻を許し、土佐国一国だけとなり、人生がほぼ振り出しに戻ってしまったという結果になった。

《 自由民権記念館 》
 自由民権は、明治前期の日本を揺るがした最初の民主主義運動であった。専制政府との激しい闘いが絶頂に達していたとき、土佐の民権青少年たちは民主主義日本の建設を目指して奮闘した。今日、土佐の自由民権を学ぶことは、先覚者たちの輝かしい活躍を知ることであり、明治の日本の在り方を思索することである。民主主義を覆そうとする勢力を阻止することが最大の課題になっている昨今、そのための貴重な教訓と限りない励ましを自由民権運動から学んで見たいと思う。

民選議院設立の建白
 明治政府は徳川幕府を倒すために重要な役割を果たした長州、薩摩、土佐、肥前の代表者に、倒幕派公家が加わって組織されたが、6年後の1873年に征韓論をめぐる対立から分裂。
 当時の政府は大政大臣・三条実美を頂点に、左大臣・空席、右大臣・岩倉具視、参議・木戸孝允、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平、大久保利通、副島種臣に外務省をはじめとする諸省で構成されていたが、征韓論を主張して破れた西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の5人は10月に参議を辞任して政府を下野した。
 その3箇月後、西郷を除く、辞職参議4人に古沢迂郎、岡本健三郎、小室信夫、由利公正の4人の知識人が加わって、「民選議院設立建白書」を政府に提出した。
 建白とは国会開設の要求であった。その趣旨は、政府の役人が勝手に行っている今の政治は国を滅ぼす元であり、人民が選んだ議員による国会を速やかに開設し、国会の審議に基づいて国政が行われるべきであり、税金を払う人民が国の政治に関与することは天下の道理であるという内容であった。
 もっとも建白者たちは選挙権を士族と豪農、豪商に限定し、一般人民を除外するとしていて、それは不徹底なものであったため、政府に拒否されてしまった。

立志社と立志学舎の創立
 郷党意識の強い土佐出身の多数の政府役人と軍人は、板垣と後藤の辞職に同調辞職して、続々と土佐に帰って行った。明治維新によって職を失った同郷の士族に職業を与え、彼らの子弟に教育を与えるために、1874年に立志社と立志学舎を創立した。
 当初の立志社は、製茶・製紙などを担当する「授産課」と、製品の売買や、為替などを担当する「運搬課」の2課を置いた企業組織であって、自由民権運動を目的とした政社ではなかった。また立志学舎も四書五経などによる伝統的教育で、自由や民権について学ぶ教育でもなかった。
 立志社は1876年1月から、新しい規則を施行し、立志学舎は慶応義塾から講師を招いて英語教育を開始した。その上で、ベンサムの「法理書」、ミルの「自由之理」・「代議政体」、ウォール・チェンバーの「経済書」、クエッケンボスの「大米国史」、グードリッチの「仏国史」・「英国史」・「万国史」、ギゾーの「ヨーロッパ文明史」などを使って、欧米の歴史や近代民主主義の制度、思想を教授した。

民会と州会
 立志社が初めて人民を会して議事を開いたのは、1874年5月15日であった。その直後、高知県城下に民会を組織する活動があり、県内全域に組織されたのは、県が「高知県民会議事章程」を発した1876年3月以降であった。
「章程」は民会を県会・大区会・小区会の3種とし、小区会議員の選挙は第一選挙人の戸主によって公選された者が第二選挙人となって公選していた。この小区会議員が大区会議員を公選し、この大区会議員が県会議員を公選するという仕組みであった。
 もちろん、これら民会が組織された背景には立志社の指導によるものであったことは言うまでもなく、これら民会はその地域の問題は区の住民の意思によって処理するという、いわゆる地方自治の組織であった。そして小区会から大区会、県会と積み上げて、ついには国会を実現するというのが彼等の構想であった。

立志社の国会開設の建白
 1877年、西郷隆盛は九州で挙兵(西南戦争)し、最大規模の反乱を画策した。この挙兵のとき、立志社は呼応する挙兵も政府の援軍要請も退けて、第三の道である自由民権運動の方針を確立した。立志社社長・片岡健吉が1877年6月9日に京都御所に出頭し、立志社建白を提出し、天皇への執奏を求めた。その趣旨は以前に政府へ提出したときのものと同じ、国会開設の要求であった。

自由民権のエルサレム
 立志社建白の後、土佐には大小の民権結社が続出した。それらの中で特に規模が大きく数々の業績を挙げたのは南獄社、南洋社、逍遥社、開成社、進取社、有信社、発陽社、修立社、共行社などであった。当時の城下の青少年のほとんどはその地域の民権結社に参加し、各社の学習会、演説会、旗奪いなどに加わって心身を鍛えた。
 立志社建白を知った県外の青年民権家は、立志社をしたって続々と土佐にやって来た。青年民権家たちは「土佐は実に自由民権のエルサレムだ。」と言い、後に民権運動に大きな足跡を残したのは秋田の柴田浅五郎、福島の河野広中など多岐に及んだ。

愛国社の再興
 自由民権を全国に広げる方針を立てた立志社は、1878年4月から愛国社の再興に着手した。愛国社は全国的大政党の結社を企図した立志社と徳島の自助社が中心になって1875年に全国の志士を大阪に集めて結成していたが、自然消滅していた。これを再興しようとした。

愛国社(第四会)
 会は第四会を迎え、1880年3月に大阪で開かれ、加盟27社の代表の他、加盟外の全国数十社の団体代表が参集した。この集会の中で、新たに国会期成同盟を結成し、規模を定め、国会開設の願望書を天皇に提出することを決め、2名の代表を選出した。

国会期成同盟(第二回大会)
 2名の代表は、願望書の執奏を政府に求めたが、再び拒絶。次回を東京で開催し、この集会を「大日本国会期成有志公会」と名付け、「国会期成同盟合議書」と「遭変者扶助法」を制定した。
合議書には
 一、国会が実現するまでは国会期成同盟を解約しない。
 一、次会は明年10月1日から東京で開く。
 一、次会までに各地域の戸数の過半数の同意を獲得する。
 一、次会には各組織が憲法見込案を持参研究すること。
などを定めた。

 扶助法は国会開設運動参加者が官憲の弾圧等によって犠牲になった場合に、本人や家族を扶助することとし、その手続規定八箇条を定めたものであった。
 植木枝盛はこの大日本国会期成有志公会に、同会を一変して政党にしようとの案をもくろむが実現に至らず、さらに会談を続けて、「自由党結成盟約」を決議の上、明年9月10日から第一期の議事を開くことを決した。これを「自由党準備会」と呼ばれる組織とし、その後立志社内に「高知県自由党本部」を設置した。

明治14年の政変
 自由党準備会は約束通り、1881年9月10日に東京で議事を開いた。国会期成同盟が自由党結成に踏み切って、自由党準備会と合流し、国会期成同盟を大日本自由党結成会に変更し、自由党組織原案の作成審議を進めていたところ、思いがけない政府の「詔勅」が発せられた。これは先の国会期成同盟合議書の内容について、一定の譲歩をすることによって、この民権運動の矛先をそらせる策であった。(明治14年の政変)

自由党と南海自由党の成立
 明治14年の政変により政情が激変したが、自由党結成作業は進み、10月29日に自由党が成立した。成立当初の役員は、「総理」板垣退助(土佐)、「副総理」中島信行(土佐)、「常議員」後藤象二郎(土佐)、馬場辰猪(土佐)、末広重恭、竹内綱(土佐)、「幹事」林包明(土佐)、山際七司、内藤魯一、大石正己(土佐)、林正明の11名であった
「自由党規則」には地方に地方部を設けることとしていたため、土佐では翌年5月7日、南海自由党を成立させ、自由党と合同することを満場一致で確定させた。これ以降、党員505名の南海自由党各組合の他、南海自由党の下部組織はたちまち土佐各地に成立した。
 新しく成立した海南自由党が立志社の責務を肩代わりしたので、その後立志社は親睦団体に変身し、翌年3月には解散した。そして社屋を後楽館と命名し、海南自由党本部にあてた。

自由党と海南自由党の解党
 民権派の自由党結成が叶い、自由民権運動も激化する中、総理の板垣が東海地方遊説を始めた。1882年4月6日、岐阜富茂登村神道中教院で開かれた自由党懇親会の演説後、暴漢に襲われるという事件に見舞われた。退院後、板垣は後藤象二郎の誘いで外遊に出かけた。
 ところが、帰国後の1884年10月、自由党急進派が栃木県令及び政府高官の暗殺を計画して発覚。茨城県の加波山に拠って挙兵した。政府によって数日で鎮圧されたものの、党内には衝撃が走った。(加波山事件)
 これを受けて、1884年10月29日、大阪北野の太融寺で開いた自由党大会では、提案朗読した「解党大意」を全員賛成で可決した。自由党は満3年の生涯だった。
 自由党の解散を受けて海南自由党も解散の件について、臨時総会開会の通知を発して、解党を決議した。

三大事件建白
 1886年10月23日、イギリスの貨物船「ノルマントン号」事件が起こり、治外法権下の日本の惨めさを人民に認識させた。折しも、政府は不平等条約改正の交渉を近めており、満を持して改正案をまとめたが、内閣法律顧問・ボアソナードは、この案は現行条約の改悪だと説き、農商務大臣・谷干城は政府案に反対する意見書を提出し、辞職した。また伯爵の板垣も政府案に反対する意見書を天皇に提出した。
 政府の条約案に反対するこの情勢をみたかつての自由党副総理・後藤象二郎は、反政府運動の先頭に立ち、丁亥倶楽部を組織した。そして、「租税徴収を軽減すべき事」「言論集会を自由にすべき事」「外交失策を挽回すべき事」を政府にせまる三大事件建白運動を展開して見せた。
 一方、土佐では高知城下はもちろん七群全域に及び、士族、平民、会務員、商工業者、地主と小作人を一丸とした農民、それに婦人も加わった最大規模の民権運動に発展した。

第一回帝国議会と土佐派
 1890年7月1日、第一回衆議院議員総選挙が全国で一斉に行われた。海南自由党の後身・海南倶楽部を頂点とする民権派は、第一選挙区に1名、第二選挙区に2名、第三選挙区に1名を立候補させ、4名全員の当選に成功した。全国の党派別当選者は、大同倶楽部55名、立憲改進党46名、愛国公党35名、保守党22名、九州同志会21名、自由党17名、無所属104名だったが、議会召集前に旧自由党系の大同倶楽部、愛国公党、自由党、九州同志会、群馬公議会、京都公反会が合同して立憲自由党を結成したから、院内最大勢力になった。
 11月25日に第一回帝国議会が招集され、29日に開院式が行われ、民権運動が終始最大の要求として掲げた国会がついに実現した。この議会で最大の問題になったのは予算案をめぐる与党と野党の対立であった。この時の衆議院の勢力関係は、立憲自由党議員の組織する弥生倶楽部130名と立憲改進党所属議員の組織する議員40名を合わせたいわゆる野党は170名で、300名の定員の過半数を上回っていた。「予算削減」「民力保養」を唱える野党は、予算委員会において歩調をそろえて、政府提出の予算案の削減で政府に対抗した。ところが、この渦中で一部の土佐派と呼ばれる高知県選出議員と県外から当選した土佐出身議員が離反し、与党修正案に賛成してしまった。結果、野党は占有議席過半数という最大の権能を生かすことなく、その会期は敗北した。

選挙大干渉
 最初の議会で混乱した立憲自由党は、1891年3月19日に党大会を開いて改組を行い、自由党と改称し、板垣退助を党首に選んだ。立憲改進党は大隈重信が事実上の党首として、第二回議会に備えて政府攻撃の構えを見せていたが、反政府共同戦線の結成を目指しているという共通認識に基づいて、11月、板垣、大隈会談が実現した。そして、自由党、立憲改進党、さらに加わりたいという自由倶楽部の3党に無所属の有志も加わって野党連合が結成された。全体で150余名の野党議員が参集し、第二回通常議会の招集を迎えることになった。
 第二回議会では、野党は12月22日の本会議において、政府提出案の1割削減を議決し、私設鉄道買収法案を否決し、さらに立憲改進党は内閣不信任案提出の動きも見せた。止むを得ず政府は衆議院解散を決意し、25日に解散の詔書を発した。そして第二回総選挙の日取りも決定された。
 松方正義を総理大臣とする政府は、議会における野党の攻勢に手を焼いていたため、野党候補者の当選を阻止するための選挙干渉を決定した。早速、内務大臣・品川弥二郎は府県知事をはじめ地方官吏、警察官を総動員して暴力による干渉を加えたため、多数の死傷者が出た。
 ことに、板垣と大隈の郷里である土佐と佐賀、それに熊本、石川、千葉の諸県では政府の干渉が激烈を極めたが、このような政府の大干渉にも関わらず、自由党94名、立憲改進党38名が当選した。その後、帝国議会は開会され、貴族院は政府に選挙干渉の反省を求める建議案を可決、衆議院も建議案を可決し、それに伴い松方総理大臣は辞表を提出した。さらに、内務大臣・品川弥二郎も選挙干渉の責任問題で辞職し、干渉に尽力した地方官吏、警察官も免職や左遷などの処分を受けた。この選挙干渉に対する反撃が、土佐自由民権運動の最後を飾る闘いになってしまった。

思ったこと…
 まず、このような自由民権運動の実態が壮大なドラマになっていたということに、正直、驚いた。自由民権運動の初期・立志社・立志学舎のところでは、慶応義塾大学の前身・慶応義塾から一流の知識人、それも欧米文化に精通している人物を講師に招き、知識教育・思想教育が行われていたなどとは全く知らなかった。自由民権記念館では当時の入学試験問題が展示されていて、試しに挑戦したが、中々難しかった。試験内容はヨーロッパの地理で、知識の応用が出題されていた。普段から社会への問題意識と相当な知識欲がなければ、まず解けなかっただろう。そして何より、英語教育の必須化だけでなく、ベンサムやミルなどの法哲学の講義にも驚かされた。
 私も学生時代にこれらも学んだが、そう易しいものではなかった。これらに取り組んだ彼らは、今でいう大学生くらいとも想像出来た。やがて彼らが巣立って行き、維新社会で活躍をするにつけ、私は変革のリーダーとは体力だけでなく、知識も必要で、それも応用の利く知識だと思えた。私もそのように知識とは向き合って行きたいものだと思った。
 また、1892年1月の第二回総選挙の時、政府の選挙干渉の謀略が行われてしまい、何とか野党が選挙で躍進出来た。今度はその野党が反撃を行ったが、土佐自由民権運動の最後を飾る闘いとなってしまった。
 その理由を考えてみると、1886年のイギリス貨物船「ノルマントン号」事件が起こった時、社会ででは治外法権の批判が高まり、政府もその不平等条約改正に向けた動きを見せたが、板垣は政府案に憤慨し、反対する意見書を天皇に提出したこと。さらに、第二回総選挙の2年後、1894年には治外法権撤廃に成功するという歴史的事実も考えれば、板垣ら野党の面々は、この治外法権撤廃に向けて、挙国一致の姿勢で臨むために自由民権運動停止へ政策転換を行ったと考えられる。くしくも同じ年に日清戦争が起こった。明らかに欧米列強の中の日本を意識した政策転換であろう。

《 坂本龍馬記念館と龍馬銅像 》
坂本龍馬記念館
 当記念館に入ると、龍馬の残した多くの手紙が展示されていた。その多くの手紙の現代語訳を読んで行くうちに、坂本龍馬という人物の人柄が見えて来た。

  思考回路は論理的な性分であること。
  お人よしで、甘える性分であること。
  押しの強い性分であること。
  小さいことにこだわらない性分であること。
  よく行動をする性分であること。
  少し口が悪い性分であること。
  人を笑わせることが出来る性分であること。
  自己中心的な性分であること。
  女性好きであること。

 などが主な性格であろう。以上のような要素を持つ坂本龍馬とは、ある程度バランスの取れた人格だったと思われる。実社会で大成する人物のこのような性分を持つことが、成功への近道だろう。

       

巨大な龍馬銅像 次に向かったのは、桂浜公園内にある巨大な龍馬銅像である。ちょうどそこでは、イベントが行われていて、その巨大な銅像と同じ高さの展望台が特設されていた。そしてその展望台に登り、右手に見える巨大な龍馬の目線の先は、一体どこを見ているのだろうかとふと考えた。
 その先は、フィリピン、インドネシア、パプアニューギニア、そしてオーストラリアがあった。実際、龍馬も茫漠な桂浜の海を見て、それらの国々に思いをはせながら日本の世明けを考えたこともあったはずである。そう考えると、自分も同じ場所に立っていることが嬉しく思えた。
 翻って、愛媛の瀬戸内海は室町時代より、周防(山口)、安芸・備後(広島)、備中(岡山)勢の領海侵犯と三島村上氏の海賊行為に悩まさていただけである。幕末に至っても、海上からの不審者か漁師間トラブルなどに神経をとがらせていただけであろう。とても龍馬のように、あの海の向こうには行ったこともない外国がたくさんあるがぜよなどと思いをはせることはなかったはずである。そのような地政学的な不幸もあって、愛媛ではついぞ、スケールの大きな偉人にはお目見え出来なかったようだ。
平成28年5月21日
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