第 295 号 |
京都訪問 = 偉人館巡り |
7月21日~23日に掛けて京都訪問をする事となりました。以前より交流のある、しまの大学・村上律子さんと共に再び東寺の長者様に会いに行く予定が決まり、21日は、東寺・松下幸之助資料館。22日は、霊山歴史館・八木邸。23日は、寺田屋というスケジュールを組んでいましたが、出発4・5日位前に村上さんから連絡があり、予定していた21日の東寺は、当日東寺に屋台が入っており、長寿様他、東寺に関係する方々とお会いする事が出来ない為、東寺へは行けないとの連絡が入りました。ですが、私達四国政経塾一行は京都訪問を取り止める事は出来ません、なぜなら松下幸之助資料館の訪問を予定していたからです。という事で、東寺への訪問は涼しくなった10月頃に訪問する約束を村上さんとして、毎月1回予定している偉人館巡りとして、2泊3日の京都訪問する事になりました。 21日、8時頃塾を出発。最初に向かったのは寺田屋です。寺田屋へは昼過ぎ頃に到着しました。 淀川は古くから、京・大阪・瀬戸内海を結び、又琵琶湖を経て東海道や北陸への交通の大動脈。寺田屋はその祖百姓伊助が慶長2年に現在の伏見京橋に移り船宿を開き、出身の寺田村の村名を採り“寺田屋”と号したと伝えられました。京へ向かう船着場であった伏見京橋界隈は維新当時大変なにぎわいでした。パンフレットによると、船宿の営業は1日20時間、朝6時朝延への荷を運ぶ「今井船」から三艘、昼・三艘、夜・四~五艘の「三十石船」を仕立てる。一刻一艘の言葉のように、2時間ごとに30名余りの客の食事・休息・入浴などの世話をするので、大変忙しい日々だったそうです。しかし、一人三百文 (慶応期) の船賃のうち二割が収入となるので豊かな船宿が多かったそうです。六代目・伊助となっていた寺田屋も、薩摩藩の定宿と指定され西国雄藩志士等の京に赴く足だまりとなっていた事もあって大変な繁盛であったと伝えられています。交通の要所にあり、薩摩藩の定宿であった関係から寺田屋は維新史を語る上で必須とされ“寺田屋事件”が起こりました。文久2年 (1862) 4月23日夜明けを期して討幕の挙兵を結構せんと計画する薩摩藩急進派と他薩摩藩志士達が寺田屋に集合しました。これを知った薩摩藩主父島津久光 (薩摩藩の尊皇派が当時の薩摩藩主の父で事実上薩摩藩の実験を握っていた) は、剣術に優れた者たちを集めた鎮撫使を京都へ差向けますが有志の義挙を断念させる事ができず、薩摩藩同士の激しい斬り合いとなって急進派九名の志士が犠牲となりました。 六代目伊助の女房で女将のお登勢は多くの志士達を助けたことで寺田屋と言へば“お登勢”と言われるほど後世に名を残します。“お登勢”は、大津の丸山町にあった宿、升屋を経営していた重助の次女に産まれ、18歳の時伊助と夫婦となり、一男二女をもうけました。伊助は放蕩者だったようで寺田屋の経営が悪化し、お登勢は夫の代わりに寺田屋の経営を取り仕切る事となり、また姑の面倒も見ていたようです。 その当時、坂本龍馬が愛用していた部屋が寺田屋にあります。坂本龍馬は薩摩藩の紹介で寺田屋を京の宿として利用していました。慶応2年 (1866) 1月23日幕吏の襲撃を受けた時もその部屋に泊まっていました。その時は負傷しながらも脱出に成功し薩摩藩に保護されたと伝えられています。龍馬が愛用していた部屋には弾痕も残っていて、柱には刀痕はありますが、観光客が触れる為なのか、刀痕や銃弾の痕には見えなかった。パンフレットによると、部屋に掛けられている龍馬の掛軸は、幕末の風雲を告げ薩長連合に東奔西走する龍馬の身に忍びよる殺気を感じた女将お登勢が嫌がる龍馬に奨めて街の画家に描かせた龍馬遺難直前の生彩えきえきたる絵像だそうです。京都円山公園の銅像のモデルにもなりました。 パンフレットに書いていましたが、寺田屋に宿泊できるのには驚きました。建物内に酒類・食品の持込み禁止。全館禁煙・禁酒と規制がありますが、龍馬が愛用していた部屋以外の部屋に宿泊する事が可能です。歴史を感じたい方にはオススメかと・・・。 次は、松下資料館へ向かうのですが時間がある為、先にホテルにチェックインして、3時に約束をしていたので、松下資料館に向かいました。 資料館に入ると、遠藤館長が笑顔で出迎えてくれました。挨拶を交わした後、遠藤館長より特別な講義をしてくれました。(今回で2度目の講義です) 講義内容は人間とはどんな存在で如何生きて行くかでした。人間とは全てを生かす王者である・全ての自然と順応同化 ・人間はダイヤモンドの原石で有る (個々に違う光を放す) ・成功は一人一人違う ・自分の持ち味を生かす ・自分に与えらた天分を生かす (常に強く願う) ・自分がやっている事を好きに成る (素直な心) ・主座を持つ ・誰よりも強い意志 ・見識を変える等、細かく講義してくれました。 講義の後は、前回同様展示室を見学しましたが、今回も時間が少なく全ての展示コーナー・映像ブース等を見て回ることが出来ませんでした。次回はゆっくりと展示室を見学し勉強させて頂きたいと思います。 この日の夕食は訪問する際、遠藤館長から夕食を一緒にと誘われていました。実は、京都に出発する前から遠藤館長との夕食を楽しみにしていました。連れて行ってくれた所はなんと、先斗町の鴨川納涼床で美味しい料理を頂きました。後で話を聞くと同行していた松岡さんは鴨川の納涼床の食事が夢だったそうです。私は、10数年前に京都に訪問した時、京都政経塾の岩田さんが一度連れて行って下さって言った事があり、今回は2度目の食事になりましたが、自分勝手ですが私は暑いのがものすごく苦手ですが、想像していたよりも涼しくて、雰囲気も良くて、また京都に来る時は是非納涼床で食事をしたいと思ったのは私だけでしょうか・・・。 22日、この日は10時にホテルを出て最初に向かったのが、霊山歴史館です。霊山歴史館に着くと、思ったより少し涼しかった為、歴史館横の丘に維新の志士達のお墓がありそちらを先に見学しました。志半ばにして死んでいった維新の志士達、約3,100柱が合祀されています。数年前の塾報にも書いていますが、中岡慎太郎や坂本龍馬も祀られています。しかし、墓碑 (合葬墓を含む) の確認されているのは、3,100柱のうち386柱です。 館内に入ると、今回の展示は幕末の京を駆け抜けた新選組に終点を当て新選組に関する貴重な資料が多数展示していました。新選組は、文久3年 (1863) 結成された浪士隊。京都守護職の会津藩士・松平容保のお預かりとして、将軍の護衛と京都の治安維持につとめました。当時、京都は脱藩浪人たちによる暗殺事件が頻発していて、新撰組はその取り締まりにあたっていました。池田屋騒動では、7人の脱藩浪人を斬殺。新撰組の名を全国にとどろかせました。最大時には200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ浪士組として一団を成します。維新後は幕府軍とともに京都を追われて、次々と隊士を失っていきます。明治2年 (1869) 土方歳三が戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で狙撃を受け戦死したことによって、新撰組は最後の幕を下ろしました。 次は、新選組 壬生所遺蹟・八木家に向かいました。 八木家は壬生村きっての旧家で壬生郷士 (壬生住人士) の長老をつとめていました。また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られています。 八木家は新選組が結成された家。幕末の文久3年 (1863年) 春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司他・計13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生しました。当時、当家は11代八木源之烝應迅と申しました。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てていました。 八木家の奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語っています。こうして近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、慶應元年 (1865年) 夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがありました。 壬生に生まれ幕末京都の治安を守った新選組。あしかけ3年の新選組壬生屯所時代。これが真の新選組のすがたではないでしょうか。※パンフレット参考 八木家では、案内の方が当時の出来事を説明してくれました。上記パンフレットを参考に説明していますが、案内人の話によると、奥座敷の間で刺客に襲われたが、就寝していた自室から攻撃の刀をくぐり、部屋に続く裏の廊下に出て、隣の六畳間に逃げ移りましたが、その時六畳間の戸口に置いてあった机につまづき、転倒したところを切り込まれ最期を遂げたと説明がありました。話を聞いていると当時の乱闘をドラマのようにイメージしながら聞いてしまいましたが、実際に斬殺された部屋では恐怖を感じました。 次は、二条城へ。 慶長8年 (1603年) 徳川幕府初代将軍・徳川家康によって京都御所の守護と将軍上洛の際の宿舎として造営されました。家康が造営した当時は、現在の二の丸御殿と天守部分だけでした。その後、寛永3年 (1626年) 三代将軍・徳川家光が大改修で二条城の西側に本丸御殿と天守閣を整備し現在の規模となりました。 二の丸御殿は武家風書院の代表的な御殿建築造りで・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6つの建物が東南から西北に向かって雁行形に並んでいます。 大広間は一の間~四の間まであり、一の間は最も各式高い部屋で、第15代将軍・徳川慶喜が、大政奉還を発表した部屋でもあります。二の間は御水尾天皇の行幸で、能の見所としても使われ、三の間は大名の控え室として使われていました。四の間は将軍が上洛したときに、武器庫のように使っていたと言いますが、この部屋は桃山時代の様式を取り入れた、巨大な松と勇壮な鷹が描かれています。 黒書院は、関ヶ原の戦い以前から、将軍と譜代大名などが内輪の対面場所で使われていた部屋だと言われます。白書院は、将軍がプライベートな時間を過ごす部屋で、将軍の居室と寝室となりますが、江戸城で言うと“大奥”に当たるところだそうです。 本丸御殿は、上記説明しましたが、寛永3年 (1626年) 三代将軍・家光の命により増築され、もとは、五層の天守閣が高くそびえ壮麗を誇っていました。しかし、寛延3年 (1750年) に雷火により焼失して、また天明8年 (1788年) に、大火による類焼で本丸内の殿舎をもなくしています。現在の建物は、京都御苑内にあった旧桂宮御殿を明治26年~27年 (1893年~1894年) にわたり、移し建てられたものです。旧桂宮御殿は、弘化4年 (1847年) 頃に建てられたもので、宮御殿の遺構としては完全な形で残っている貴重なものだそうです。 二条城の訪問は何度か来ていますが、やはり思わず立ち止まってしまいます。目の前に、豪華な門が待ち構えており、門だけではなく中に入ると“凄い”の一言で、時の権力者の凄さがどのぐらいのものか計り知れない凄さを感じました。 2日目の夕食は前日の納涼床の食事が忘れられず、この日の夕食も納涼床で食事をする事が出来ました。ですが、どこを連絡してもやはり満席で当日入れる店がないと諦めていましたが、何とか探しあてる事が出来てラッキーでした。しかし、事前に調べて行った京料理店ではないので、メニューを見て驚きです。でも高い安いと考えながら食事をしても美味しいものも美味しくなくなるので、京都の思い出に良いよねっと、思いながら楽しい食事をさせて頂き感謝しています。 最終日、11時にホテルを出て錦市場でお土産をと言ったのですが、やはり京の台所と言われる市場なので漬物や魚等が多く、錦市場を見学した後、京都駅でお土産を買う事に・・・。 塾へは夕刻6時頃到着しました。 今回の京都訪問は、偉人館巡りとして行きましたが、初日に訪問した遠藤館長には前回同様大変お世話になり、また私達の為に講義をして頂き有難う御座いました。資料館巡りでは、何度か訪れた資料館であったのですが、今回は新選組を中心とした見方で廻れたことで勉強になりました。毎月の偉人館巡りでは、四国県内の偉人館巡りですが、年に何度か四国を出た偉人館巡りも必要だと感じたのは私だけでしょうか・・・? |
平成28年7月23日 |
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