第 301 号
研修 in 高梁市
はじめに
 私たちは、岡山県同市ご出身の実業家森泰伯氏のお招きにあずかり、同市の活性化について議論すべく、1泊2日の予定で現地に向かった。日程は11月18日(金)に昼は同市の散策、夜は森氏及び同市活性化に取り組む有志の方々を囲んで懇親会に出席、翌19日(土)は、再び同市の散策をし、その後帰宅という予定であった。

11月18日(金)昼
 岡山県高梁市は、「雲海に浮かぶ備中松山城」で全国的に有名になっているところである。私たちは、最終日の懇親会で内容のある議論が出来るように、この日は地域を散策することにした。すると、塾生として学ぶ身の私にとっては、看過することの出来ない人物の発見があった。その人物こそ、歴史上埋もれた偉人・山田方谷であった。
 山田方谷とは、幕末、徳川幕府は長州藩再征問題と、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国代表からの条約勅許問題に対処させるため、備中松山藩藩主板倉勝静に老中再任の打診を行なった。その際、幕府から「其家臣中に能く之を補佐するものあり」と高く評価され、藩主勝静の人事に間接的に影響を及ぼした人物であった。では、山田方谷とはいかなる人物であろうか。

少年時代
 誕生は文化2年(1804年)2月21日、備中国松山藩・阿賀群西方村(現・高梁市中井町西方)であった。方谷は通称を安五郎といい、方谷は号である。父母は2男1女をもうけ、長男が方谷である。
 当時の山田家は極貧の状態であった。父は日夜家業に従事し、大義に通じ、気概があり、行商の際には長刀を帯び、武士の風があった。家を弟に譲ったのち、別居して製油業を営み、菜種油の製造と販売に従事した。
 文化6年(1809年)、5歳になった方谷は家を離れて新見の安養寺に下宿し、新見藩儒松隠の塾に学ぶことになった。父はしばしば方谷を戒めるために身を立て家を興すことを説き、母もこれに同意し、「佳児必ず志を成せ」と言った。当時、山田家の生活が極貧状態でありながらも、父母が方谷のために学費を惜しまず、松隠塾に学ばせることにした。
 文政元年(1818年)8月に母が、翌2年(1819年)に父が続けて亡くなった。父が死の直前に書き残したといわれる訓戒は、その後の方谷に大きな影響を与えた。
 方谷は家業の製油業と販売に日夜励み、暇日に勉学に努めた。煩わしい仕事に追われていては学問の効果は上がらないと嘆かざるを得なっかったが、亡き父母の教訓を忘れずに家業と学業に精励した。 やがて方谷は、新見藩士若原氏(名は進)を娶った。長女瑳奇も生まれた。
 この時の升と秤を手にして、農民や商人と交わった経験は、方谷が備中松山藩の財政権を握ったとき、利権を追う役人や商人を相手にして、侮りを受けず、藩政改革を成功に導く大きな要因となった。

有終館学頭
 方谷は青少年時代の10年間に、京都に3回、江戸に1回遊学している。帰藩した方谷は有終館学頭を命じられた。これより13年間、方谷は有終館学頭として、若手藩士の教育にあたった。

備中松山藩第7代藩主 板倉勝静
 学者として日々を送っていた方谷に、やがて人生の転機が訪れることになった。板倉勝静との出会いである。勝静は陸奥日向藩主松平定永の8男として文政8年(1825年)正月4日、白河城に生まれた。祖父は寛政の改革で有名な老中松平定信であった。勝静は20歳の時、嗣子のなかった備中松山藩主勝職の婿養子となった。
 方谷はしばらく、世子勝静の教育に情熱を傾け、立派な藩主に育て上げた。これが後に、藩政改革を断行する際に方谷が抜擢される所以である。

理財論と擬対策
 方谷が後年に藩政改革を断行する思想に「理財論」と「擬対策」がある。前者は江戸遊学時に、後者は帰藩後に著した。
 前者は上下巻からなる経済論である。上巻は、「善く天下の事を制する者は、事の外に立って、事の内に屈しないものである。そして、明主と賢相が超然として財の外に立って、財の内に屈せず、人心を正し、風俗を厚くし、賄賂を禁じ、撫育に努めて民物を豊かにし、文教を興し、武備を振るえば綱紀は整い、政令は明らかになり、治国の大方針は確立し、理財に通じる」という内容である。
 下巻は、「君子は義を明らかにして利を計らないものである。利とは無用な飢餓と死亡を減らして行くことである」という内容である。
 後者は政治論である。内容は、「財用の窮の本源は、賄賂の横行と贅沢の隆長にある。これらを除かなければ財用の窮を救うことは出来ない。財用の窮を救わなければ、士風が衰えて振るわない。士風が衰えて振るわないのは、哀乱の兆である。これを改める手立ては、明主と執政大臣とが心を合わせ、思いを同じくし、猛省して深く思いを巡らして、宿弊を除かなければならない」である。

藩政改革
 江戸時代後期になると、旗本や小藩においては、慢性的な赤字と累積する借財をまえに存立が危ぶまれていた。備中松山藩もその例外ではなく、方谷は元締役兼吟味役を命じられた。その時の累積赤字は10万両にも上っていた。
 当該藩の財政窮乏の理由として、領内の検地錯誤が挙げられる。つまり、幕命により行われた検地では、実際よりも2倍に評価されて、重い年貢を課せられていた。さらに、前述した借財が10万両であることに対して、雑税を加えた1年間の収入は約5万両であった。つまり藩は、2年分の収入を前借りしていたという計算になってしまう。
 こうした藩財政の危機的状況にあったにも関わらず、藩では抜本的な対策はなされず、藩士からの借り上げ米、農民の持高に応じて、一石に付きいくらかの割増しを加えて取り立てる高掛米、富裕な庄屋や有力商人、大坂・江戸の豪商などからの借金によって賄っていた。

上下節倹
 そこで当然、収入を計算して適当に支出を調整する会計の確立が絶対的に必要であった。そのためには「入用筋省略」すなわち「上下節倹」が必要であった。これは藩財政再建の基本理念であり、嘉永3年(1850年)6月、帰藩した勝静は、藩士を集めて全藩振粛を命じた。勝静は、率先して節倹の範を示し、格外の倹約を行なった。
 このようにして、下々に及ぼして行くことは方谷の主張することであり、勝静は実践してみせた。

借財整理
 方谷は借財整理を行なった。新旧借を合わせて10万両にも上った。如何にこれを処理するのかは藩財政の再建にとって喫緊の課題であった。特にその必要性が迫られているのは大阪での借財であった。
 嘉永3年(1850年)10月、方谷は自ら大坂に出張して豪商の債主らと会って、藩財政の実情を説明し、次いで財政再建の計画を語り、返済を延期することを求めた。そして、今後借財をしないことを条件に、従来の負債は新旧に応じて10年間から50年間をもって返済することを提案し、債主らの承諾を得た。また、大坂の蔵屋敷も経費削減のために廃止し、年末に元締役または吟味役が出張して、1年間の会計を処理することにした。

殖産興業
 次に藩財政再建の政策として撫育方が新設された。撫育方とは、特別会計で処理される部署のことで、新製の永銭札を資金として領民に貸し付け、産業を奨励し、生産物を撫育方に納めるという仕組みである。
 まず方谷は、備北の三室・吉田の両鉄及び鋳長山を開掘して盛んに砂鉄を採取し、城下対岸の近似村(現・落合町、高倉町大瀬八長)に数十の鍛戸を設けて、刃物、鍋、釜、鋤、鍬、千歯稲扱、釘などを製造させた。結果、周辺諸国から冶工を集め、一帯に市街を形成することが出来、さらに北方・吉岡の両銅山を買収して、製銅を売却し、多大な利益を上げた。
 また、山には杉、竹、漆、茶を新植し、煙草も増殖させた。特に煙草は藩の保護奨励策として力を入れた。結果、東は江戸、西は九州まで及び、「松山刻」といわれるほど名声を博した。
 また方谷は、柚餅子、檀紙、陶器などの生産も奨励した。柚餅子は材料の柚子を家中屋敷に植えさせ、陶器は杉浦焼と呼ばれ、釉薬物の茶道具や日常雑器が城下伊賀町(現・伊賀町付近)で焼かれた。これらの産物は江戸で売却された。売却代金は江戸藩邸の公費に充てられ、以後藩地からの経費の送金は必要なくなった。発生した余剰金は大坂の負債に充てられたり、藩地の永銭兌換の準備に充てられた。
 このように、江戸に産物を売却し、下方撫育を行なったことは、藩内に遊民がないようにし、かつ領内が山中にあるため、上方売買人のほか、諸職人が多いということから、産物製造を充実し、他所より資金を稼ぐことが第一と考えられたからである。

藩札整理
 ところで、備中松山藩で最初に藩札が発行されたのは、板倉氏が伊勢亀山から入封された延享元年(1744年)のことであった。これは方谷が勝静と出会う百年前のことである。この年に初めて札座を設けて藩札一匁(もんめ)を発行した。次いで50年後に五匁札を発行し、その準備金は札座に用意していた。しかし、藩財政のひっ迫化に伴い、準備金を財務を主管とする御勝手方に、突然借り入れた上に、天保年間(1830~44年)には五匁札を大量に発行していた。そのため藩札の信用が下落し、不安を感じた人々が両替に殺到するという事態が起きた。さらに贋札も出回り、藩札の信用は完全に失墜してしまった。そこでそのようなことがないように、五匁札の裏に改印をして贋札と区別することで対応したが、藩札の流通正常化は成功しなかった。
 事態を重くみた方谷は、札座に積み立ててあった準備金で2年間を費やし、問題の五匁札を買収し、近くの河原で焼却した。そして、方谷は確固たる準備金の下に永銭と呼ばれる新藩札を発行して両替を励行した。すると藩札の信用は回復し、藩内はもとより、他藩にまで流通するようになった。

軍政改革
 方谷は、文武を励ますことによって士風を正しくすれば、国勢が盛んになるという発想のもとで、方谷自身が津山へ遊学し、洋式兵術を習得した。やがて農兵制の創設に着手した。
 また、水軍にも力を入れた。海上での砲撃演習を行なったり、藩士に水練の講習を受けさせたりした。

民政刷新
 方谷は、旧家の者や旧功ある者で零落している者があれば引き立て、下民でも格別器量才気ある者は相応に引き立てた。
 治安回復のためには、盗賊掛を置き、逮捕した盗賊を厳正に処罰した。さらに賭博が横行していたこともあり、当事者を厳正に処罰した。
 また領内の悪い風習として、庄屋及び豪農、富商らが、往々にして権家に謁見して賄賂を贈ることが行われていたため公平性を欠き、この旧習を改めさせた。
 貧村には担当人を定めて米・金を賦与し、さらに庄屋中3代以上の旧家で困窮する者には、米70俵を無利子で貸与させ、10年程度で返納させた。これで旧家は、その職を継ぐことが出来るようになり、貧村も救済出来た。さらに開墾の業を行ない、百姓の次男以下に建築費、農具費を支給し、自立させ、開墾を進めた。
 また、領内で40ヶ所に倉庫を設けて、災害のために高掛米を積み立てさせたり、狭い道路を開き、田畑の間にある溝、河川を浚い、水利を整備した。
 また、方谷は教育のため郷校を各地に設立させ、若輩らの教育に力を入れた。
 以上によって、方谷の藩政改革は成功し、10万両の負債を償却しただけでなく、ついに10万両の余財を得るに至った。もちろんこの改革は、平易な道のりだけではなかった。巷では風刺が有った。しかし方谷は、これを一身に浴びながらも、平然と改革に専念して行った。

藩主勝静の幕政参与
 藩主勝静は幕府から、上記の藩政改革の成功により、藩財政が富裕したことが評価されたことやかつての寛政の改革を断行した老中松平定信の孫であること、さらに攘夷論者の勝静が尊攘派に人気があったことなども評価され、文久2年(1862年)3月15日、藩主勝静は若年寄水野忠静と共に外国掛及び勝手掛老中として、外交と財政を管轄することになった。方谷もこれに合わせて、老中勝静の顧問となり、数々の助言や献策を行なうことになった。
 しかしながら、老中となった勝静は時代の波に翻弄されながらも、数々の困難な場面を乗り越えたが、方谷の表立った活躍はなかった。後年、方谷は「藩政の事に於いては、予か建言を大抵は用いられしも、天下の事に至りては、一も採用せられさりしを遺憾とす」と嘆いている。

晩年時代
 方谷は年老いてからは世事を厭(いと)い、後進の教育に専念するようになった。明治2年(1869年)には表瀬の塾舎を6棟増築するなど、自らも各地に出向き、塾舎で後進の教育に専念した。
 そのような方谷も、明治10年(1877年)6月26日、養生の甲斐なく小坂郷にて病没。享年74歳。

11月18日(金)夜
 日中、私たちは主要な地域を散策して、土地の歴史、風土、文化に触れ、後で出席する懇親会で、少しでも良い議論が出来るように五感をフルに活用した。
 地域の真ん中を流れる大きな高梁川はとても印象的だった。小さな地域だったが、至るところで重要文化財として保存されている建物が多かった。山田方谷の時代の地名や場所、建物など資料とほぼ一致していた。また思った以上に、映画撮影のロケ地にもなっていたところが多かった。
 その後、軽い疲労感をおぼえながらいよいよ懇親会となった。資料はこちらで用意し、高梁市の現在から将来の人口動態及び地場産業について議論を行なった。
      

 私は一つの提案を行なった。この地方に江戸末期から大正まで、大いに繁栄したベンガラの復活である。かつてのようにベンガラを利用し、一つの建築資材として住宅メーカーに販売すれば、あまねく住宅建築にベンガラが使われるだろうと考えた。そうすれば、全国的に高梁市の知名度が高まるだけではなく、何より活気を無くした高梁市市民の人々が元気になるだろうと考えた。しかし、地域活性化を考える有志の方々の反応はイマイチだった。もちろん、私の説明と熱意が不十分であったことは否めないが、有志の方々の考え方、感じ方は相当に鈍いと感じた。
 酒も食事も進み、宴もたけなわとなった。私はホテルに帰った後、この時間のことを振り返った。世の中で、新しいことを始めようとする者、また現状に不満を持ち改革に挑戦する者など、如何にして困難な作業と精神的葛藤を経て実現されて行くのか、ということを反省させられた。これは私の将来のため、貴重な体験が出来たと思った。

11月19日(土)
 帰宅の日になった。その前に私たちは再び、同市の散策に出かけた。もちろん前日とは違う散策にした。情緒のある建物が並んでいた。私たちは買い物をした。直に地域の人々と触れ合ってみたが、やはり活気がなかった。寂しい地域が益々寂しく感じられた。しばらくそのような思いに駆られながら、とうとう高梁市を出ることになった。
平成28年11月19日
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