第 302 号
京都訪問
 1月25日から28日まで上島町の村上さんのお声掛けで京都を訪問致しました。訪問目的は、東寺の砂原長者様(二百五十六世)の表敬訪問と松下幸之助資料館での勉強会です。

 25日、午後京都に着きその足で松下幸之助資料館を訪問致しました。遠藤館長が笑顔で出迎えてくれ、早速遠藤館長のお話を聞きましたが、中でもやって居る事が上手く行かず困った時は原点に返り、自分の言動が正かったか考え直し、物事を原点から考えやり直す勇気の必要性です。私達は今まで此処までやって来たのだからとゆう事で、その時点の上で物事を考えて居るから上手く行かないでは、もう一度原点に帰りゼロからの思考の必要さと深く考える事の大切さです。資料館の展示物で松下幸之助塾主が講演をしているブースで、自分を外から見る事の大切さのお話に共感を持ちました。私自身も日々寝る前に今日の自分の言動を反省していましたが、塾主は其の上で明日は如何するか深く考え明日の自分の言動を追及する処まで考えて居る素晴らしさ、又その場々で何時も自分を外から見つめて今やって居る事、話して居る事が正しいか常に考えて居た塾主の人間の素晴らしさに感動致しました。時間が来たので遠藤館長にお礼を言いホテルに向かい、夜は八坂神社にお参り行き、京の夜の町並みを楽しみ、1軒の京都料理店に入り京都の料理を堪能しホテルに帰り早速今日の自分を反省し明日の自分の言動を作り床に就きました。

 26日は、私が5年程前に足を悪くし未だに良くならず辛いので神頼みで護王神社にお参り行きました。此の神社は足腰が良く成る神社ですと聞いて居たので早速お参りしお守りを買い、境内を見学致しました。何故か狛犬の代わりに雄雌一対の猪の石像が立てられて居ました。此れは清麻呂公が都より宇佐へ向かう途中災難に遭われたさい、三百頭もの猪が現れ公をお護りした事が、我が国の歴史書に記載されていて、明治23年にたてられたそうです。境内の中には猪が沢山置かれ、其の一角に日本一大きいと言われるさざれ石が置かれて居ました。
 

東寺:砂原長者様(二百五十六世)

 お参りの後、西本願寺に出かけ境内、寺の中許される限りの場所を見学し、東寺に向かい、村上さん達と合流し早速、山本氏(東寺文化部主事、長者随行)の案内で長者様のお部屋に向かい何か月ぶりかの再会です。以前よりお元気に成られ顔色も良く、今回は沢山のお話が出来ました。砂原長者様のお話を聞いて居ると、人間今までに何をしてどんな行動をしたかによって自分の値打ちが決まる様に思われ貴重な時間を長者様に頂き感謝です。長者様のお部屋を出て山本氏に東寺境内の案内をしてもらい、先ず五重の塔の中の説明して頂きました。私自身今まで弘法大師が持ち帰ったと言われるブッタの骨は、塔の芯柱の下に埋めて有ると思って居ましたが、塔の上の仏舎利塔の中か柱の下かは不明で本来は何処からでも拝める仏舎利塔の中に収めている説が正しいかも知れないそうです。其の後立体曼荼羅を見せて頂き、建物の柱の下に四角い穴が有って此れは大仏殿の人が通り抜けて居る穴と同じ役目ですと教え頂きました。抑々此の穴は柱と天井の横柱の調整の為の穴だそうです。其れから東寺の普段拝観出来ない処を案内して頂き東寺の時代背景に応じた役目の大きさ、何故初代長者様(空海)が東寺を大切にしたかを実感致しました。

金 閣 寺
銀 閣 寺

 27日は京都でも名所と言われる、金閣寺、銀閣寺、伏見稲荷神社、晴明神社を見学いたしました。
 金閣寺は正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。
 元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。
 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。

 室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
 九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自ら美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。

 伏見稲荷神社は神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233m3つの峰(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されている。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。参拝者の中には、石碑の前にひざまずいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができる。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。
 また稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。
 応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。お塚は、その周りを取り囲む形となっている。親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。

 晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明公をお祀りした神社です。創建は、寛弘41007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、その御霊を鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。
 古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったとされています。ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火によって、その規模は縮少。古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。
 その後、式年祭の度に、氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和251950)年には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明公の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。 近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。平成152003)年には、御鎮座壱千年祭が斎行されました。

 28日は平等院を訪問致しました。平等院は永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。

 今回訪問した神社・寺は、人類の悩みを聞き安心して生活が出来る様、時の権力者が立て人々の病気、災い、迷いを救う凄い建物、仏像に、出会えた京都の旅でした、其々の神社仏閣でお会いし説明して下さった人々に感謝致します。

平成29年1月28日
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