第 337 号

令和4年11月5日(土) 四国政経塾
中岡慎太郎館 訪問


 中岡記念館(中岡慎太郎生家)に伺いました。
 私は、中岡慎太郎氏のことは政経塾(塾頭)の勉強会の時にお聞きしていましたが、実際に現地に行き自分の目で見て聞いてみると、更に中岡慎太郎氏の凄さが伝わりました。
 一番間近に感じ共感したことは、慎太郎氏が20歳の時に、(父・小伝朗)が病気と知らされ、星に帰り、里のため、村人のために懸命になり、働いた(行動)したことでした。

 1854年に土佐に巨大地震が起き、その年の夏に疫病が流行り、人々が苦しんでいる中、慎太郎氏は自分や家のことはさて置き、人々の生活のために中岡家の山林や田畑を担保に、米や麦を借り入れし、人々に施した、とありました。この慎太郎氏の人間性、当時20歳の人間にここまで人のためにできる、やる力がある人がほかにいただろうか。絶対にいないとそのとき私は確信しました。
 また、慎太郎氏はまだまだ人々の暮らしが不十分なために、お金を借り入れ、復興のために直林や田畑の開拓をすすめ、作物、種等を無償で配り、耕作の指導にまであたったといいます。そして、また災害に備えて貯蓄をすすめ、共同倉庫を造らせて食物を貯蔵させたりもした。
 北川村の特産となったゆずを屋敷のまわりや山裾に直裁させたのもこの頃で、塩が高かったのか買う事もできず、川魚にゆずをかければ食べられる。という飢饉対策をも兼ねた妙案だった、と。
 20歳の少年にここまでの知恵があったのかと思います。自分が恥ずかしく思えてきました。当時の慎太郎はきっと毎日、一分、一秒、ずっとどうしたら、どうすればと考えっぱなしだったのではないでしょうか。

 私は、政経塾で塾頭に、人のため、地域のためにとよく教わります。行動を起こすことにより、実ることが沢山あり、人脈が生きれる。(人脈は財産なり)。私の胸のなかにある言葉の財産です。
 今の現代社会の中、地震や災害が多く、日本全体ではもちろんのこと、私たちの身近におき、考えさせられる事であり、正に慎太郎氏の生き様は私たち日本人のお手本だと思いました。その慎太郎氏の生家に行き、その場に足を踏み入れたことも感無量でした。他、慎太郎氏がやり遂げたことは山のようにあり、勉強させられることばかりで、また、慎太郎に会いにいきたいとおもいました。

 この機会を与えてくださった四国政経塾(塾頭)本当にありがとうございました。まだまだ勉強不足な自分ではありますが、一歩一歩前進あるのみで頑張っていきます。
令和4年11月5日
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