第 39 号 |
維新の街・京都訪問 |
平成15年9月6、7日と京都・霊山記念館→輪違屋→新撰組駐屯地八木邸→二条城→三十三間堂・・・訪問する。日本の近代国家の礎を築く以前の幕末動乱期に人間の私利私欲のうねりの中心地と化した京都は、天皇・朝廷対幕府、幕府対尊王攘夷派、幕府対藩、藩対尊王攘夷志士(長州藩)倒幕対佐幕などさまざまな利害関係のなか“数多き志士達”今でいえば“一般市民”が国を変えた。 攘夷と尊王が結ばれ開国鎖国問題が議論されるどころか尊皇攘夷になり公武合体論を経て倒幕運動となっていく。また、下級武士・商人・町人・農民・芸者・遊女など階層の低い人まで尊王攘夷運動は広がる。幕府の支配力が弱くなり不安を持ち始めた幕閣は朝廷を利用し尊王攘夷派を打破しようとするが返って志士たちへの危機感をうむことになる。安政の大獄、桜田門外の変、和宮の嫁下、坂下門外の変などは、明らかに幕府の弱体化を露わにしたものだ。勤皇志士の天誅の激烈さが武門の権威のなだれ現象と相俟って過熱していく。 公家も800年も鎌倉時代から政治的に虐げられたが誇り高くとにかく天皇を取巻くものの関係を打ち破りたい一心が爆発寸前。また、異国船が来航し開国する中で国内は外国人が横行したり、物価が高くなり一揆や打ちこわしなども発生していく。京都庶民は尊王派の志士を幕府の捕吏・新撰組らのテロリスト狩りから防御していく。 長州藩とかかわりがあるだけで家屋に火をつけられたり、人を殺したりすることが平気で行われたりした。文久年間は血で血を洗うといわれるほど数知れないテロの理論的根拠が含まれているともいわれており凄まじさを感じさせられる。下記に挙げたのが例と評されているが 1862年 4月23日薩摩藩同士討ちの寺田屋事件後 長州・土佐藩活躍しだす 1862年 8月松平容保京都守護職となったあと長州藩が宮廷工作を進め攘夷の勅令を受ける 1862年 5月攘夷決行 長州公卿は会津・薩摩の一掃をはかったが利害関係が生まれる 1863年 8月18日の政変の薩摩藩と会津藩が結託して攘夷派の三条実美ら7人の公卿とともに長州藩 も追放 1864年 6月5日の夜、祇園祭の斎宮三条小橋の旅館池田屋に京都奪回のため熊本、長州の尊攘派 の志士が集まり案を練っていたときに近藤勇の率いる新撰組が切り込んだ池田屋騒動 1864年 7月蛤御門付近で長州と会津藩・薩摩藩と戦い久坂玄端ら命を落とす 1862年から1864年にかけて長州藩がいかに世論を生かして公卿を見方に朝廷が攘夷を幕府にいわせたかその方法は、天誅ということになる。 また幕府のために粉骨砕身忠誠を尽くした松平容保、新撰組も見捨てられたり あるいは宿敵同士の長州と薩摩が同盟を結んだり強力な討幕運動が展開されることになる。 1867年10月将軍慶喜が二条城で諸大名を集めて大政奉還を決議(将軍が権力を朝廷に戻す)幕府存続を断念し徳川家の存続を選ぶ。薩長は目的を失う。 しかし、12月9日王政復古の大号令が発され新政府から徳川家の名をはずし旧幕府勢力打倒を目指すことになる。 明治元年薩摩の横暴に憤慨した幕府軍は1月3日洛南の鳥羽伏見で薩摩官軍と対決4日にかけてつづいて淀藩が官軍に寝返り幕府敗退、官軍追撃ついに4月江戸城あけわたしに至る。 1864年以後歴史を動かしたのは、公武合体派雄藩連合と倒幕派雄藩連合、とりわけ薩摩の力 西郷隆盛、大久保利通であると考えた場合、結果的に新鮮組が切らなければならないのは長州藩でなく薩摩藩ではなかったかともいえる。 さて、初日の夕方木屋町で夕食をとり塾頭に昔の建屋が残る輪違屋というところに案内して頂く。島原大門を入って右に入ると二階建ての渋い建物がみえ角灯には朱色で輪違紋がはいっている。町屋の雰囲気があり当時は置屋を営んでいた。島原は秀吉が各所に散在していた遊女館を一箇所に集め、左右の並木を柳を植え柳町ともいわてぃた。幕府公認の郭として発足し ちょうど島原の乱の時期であったことから名前を島原とつけたとのこと。建屋内の造り、庭等を見させて頂く中で近藤勇の直筆の屏風があり新撰組も昼間の厳しい仕事のあとはよく利用していたのだと思う。 翌日、京都政経塾の岩田さんに丁寧に八木邸を案内していただく。この中で芹沢鴨暗殺事件の刀傷や新撰組の土方歳三が作ったとされる「局中法度書」というものが展示されていたが 一、士道ニ背ク間敷事 一、局ト脱スルヲ不許 一、勝手ニ金策致不可 一、勝手ニ訴訟ヲ取扱不可 一、私ノ闘争ヲ不可 右条々相背候者切腹申付ベク候也。 というのが書かれていたが罰則が切腹とは恐ろしいことだ。衰亡しようとしている士道に風をおこすようなさっぱりとした規律である。当時の幕府治下の武士にはそのようなことを取り入れようとする人がいないほど武士道が衰退していたのだろう。新撰組の読みの深い近藤勇、目端しの利く土方の精神発達は、山岡鉄舟、清河八郎、芹沢鴨という頑固な個性と意思を持った人と旅をする中で自己を磨き意識を変えて行ったのだろう。一つ一つの経験を真っ向に立ち向かいレベルアップし殻を割るように大きな器を持った人となっていく。新撰組といえば勤皇の志士に対して悪いイメージがあるが 新撰組の魅力は、侍百姓が出世していく中散り際がよく汚くなく 金に欲を出さ無いという今の政治家とは雲泥の差だ。特高警察隊のような新撰組は、内戦時には男同士の友情、職務に対して幕府側に忠実に誠を貫き隙がない。 次に、二条城では家康の築城後儀典の館であったものが幕末になると大政奉還の舞台となる二の丸御殿城内の豪華爛漫な襖、屏風、各部屋の極彩色豊かな障壁画、格天井型の天井にも彩文画がありや小堀遠州の造った庭園を鑑賞する。長押しを飾り金具をうち、部屋の床・違棚・明障子・巨大な松樹に緊張感を抱かされた。 最後に、訪れた三十三間堂では,千手観音の数の多さと煌びやかさに思わず手を合わせて般若心経を唱えてしまいました。律令国家の権威が兵火にきえ、平家が西海に属する地方官であった平家という武士団が藤原氏という文官貴族の固める宮中へ日本中心地への進入により乱れる京都 保元・平治の乱に続いて比叡山もあれる。平清盛は蓮華王院を造営、厳島に写経を納め出家するが都は大火に焼け御所を失う。 源頼朝挙兵1180〜1185源平相克大内乱となり古代から中世への転換期となり天皇・貴族・庶民も付随し後白河法皇は観音の霊地熊野への御幸を重ねたり三十三間堂の観音にすがる。 院政期に浄土信仰の盛行は人々が頼っていたものは物量信仰、物量の多さが善根の証拠と思われていたのだろう。1179年、清盛は、後白河法皇を幽体させ自ら上皇となり天皇をたて日本国を掌握させないための策略といえよう。院政と武家政権との構造対立は日本国を統治するほうとして平家と源氏を天秤にのせて図られた。これらのことを踏まえて考えてみると、明治維新の志士らの勇気、理想への追求心、日本人としてのあり方、心構え、次世代への思いといったものは到底図りしれないものがある。 あらゆるすべてのしがらみの中でなぜ、日本を守ろうと必死に考え自己の身を省みず行動していったか少しだけ把握できた。人は生きていく中で何が大切か、何をすべきかを常に考え、確実に目的に対し行動しなければならないのか再度考えさせられた。拝むだけでは根本的解決にならない。 皆様方も家庭と仕事の忙しい毎日をおくられている事と存じますが、志を持っているいる人はいるものの世間体が気になり今一歩足を踏み込めないというかた、また、行動したが危うく命をとられそうなったりいやがらせにあってもう二度と行動したくない。20代まではもってたけど世帯を持って行動できなくなったりもうかなり年をとったから動けないという方が多いと思う。日本を考えるにあたって関わり遇いたくないとかええかっこしい!という言葉が出てくる人もおられるかもしれませんがこれは明らかな間違いである。現代を生きている日本人が次世代を生きていく人々のために何らかの行動をとり貢献していくことが当然のことではなかろうか。 四国中央市のあり方、日本の政治・経済・環境・教育・福祉・家庭等 身近な問題を 今一度じっくり考え討論してみてはみては如何でしょうか。 |
平成16年4月30日 |
目次へ |