第 5 号 |
自己の意識改革 |
最近では、テレビをつければ凶悪犯罪、新聞を読めば汚職去々、不良債権、道徳の欠落。数え切れぬほどの問題が世間にあふれ返っております。「いったいこの国はどうなってしまうんだ」と、考えれば考えるほど私は怖くなります。 常々私は、「点在する様々な問題は個々に独立して存在していくのではなく、それらは複雑な絡み合いを見せながら、一種巨大な樹木の先端の枝のごとく我々の目に触れる場所に出てきている」という考えのもと、様々な問題の解決策を考えております。どういうことかと申し上げますと、「幹は何なのか」ということを見極める事で「個々の枝はもとより、その全体像さえもが見えてくる」という大前提のもと、日々思案しているのです。 昨今「構造改革」等、いたるところで叫ばれております。ですが私は結局のところ「自己改革なくして構造改革なし」と考えております。なぜかと申しますと、先に述べました様々な問題の原因を私なりに分析した結果、根底にある最大の物は「自己の意識」なのではないかと思い至りました。「自己の意識改革」こそガタガタになった歯車を正常に戻す唯一の方法ではないかと考え、「自己改革なくして構造改革なし」という結論に達したのです。 ではどうすれば「自己改革」が出来るのでしょうか。これは叫んだところで恐らく無理だと考えます。要するにです、具体案が必要なのだと思っているのです。これは大きく分けて二種類あると思います。「与える」と「導き出す」です。前者の「与える」は、共産主義のように「一つの価値観を広めていく」といったような物と認識しております、いずれ与える物が無くなればいずれ行き詰まる事になるかもしれません。その内容がどうであれ「押し付け」という時点で、そもそも間違っているのではないでしょうか。自己の意識改革を「押し付ける」等という事には、私は断固として立ち向かっていきたいと思っております。よって、「自己改革」は我々一人一人が個々に「導き出す」以外に方法がないと思っているのです。それでこそ多様性に富んだ集団が結成されていくのではないでしょうか。話は飛びますが世界中で問題になっている「民族問題」等の解決策の糸口も、そこに見出せるのではないでしょうか。 ではどうすれば個々の「自己改革」を「導き出す」ことが出来るのでしょうか。ここから先は政策の話になっていきますので理想論や抽象論ではなく具体的な話をしていかなけらばなりませんが、非常に難しく、私の未熟な表現力では御理解いただけないと思いますので、簡略化して述べさせて頂きます。 まず第一に、今のシステムのように「上から下」ではなく「下から上」のシステムに切り替えるべきだと考えております。まず市町村があります。そこには地域独特の文化や伝統があり、それにともなっての地域に根付いた「市町村会議」があります。しかしながら「御上」(霞ヶ関)が政治上、行政上、重要な部分を牛耳っているため、我々地方は外科手術がしたくともできないのが現状であり、「利権は全て我々中央に」というのが彼等の本音なのではないでしょうか。 私が皆様に訴えたい事は、「市町村会議」が確固たる責任を持ち、「我々地域こそが政治の基である」というような認識と意識を「市町村会議」が持つべきだということなのです。 集団が飛躍してしまっているから何かがおかしいのではないでしょうか。「国家は集落の集合体でしかない」と考えたら自ずと道は見えてくるように思います。国家があるから村があるのではなく、村があるから国家があるのではないでしょうか。そういった意味で我々国民みんなが地域分権の世においては政治家になりえると私は思うのです。 「自己改革」と「地方分権国家」の関連性が御理解いただけたでしょうか。要するに真剣に問題意識を持つ事、そう足らしめる風潮を作る事、議論の場を設ける事、個々の意識が反映されるシステムを作り出す事、これらが今求められている事だと思われます。企業においてもまったく同じ、これからの時代がそうなっていくのではないでしょうか。 全ては、「時代の流れ」なのです。一部流れに逆らうような、自己の利権のみを追求しているような人がいますが、いつかは淘汰されることでしょう。後世、子や孫が豊かな心で暮らせるような立派な国に我々が作り変えていきましょう。 |
平成13年8月 |
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