第 6 号 |
続 ・ 自己の意識 |
高度情報化による価値観乱立と今後の社会、それに対する自己コンプレックスの関連性 現在、情報はリアルタイムに世界中を飛び交い、多種多様な価値観が一種しのぎを削るがごとく乱立しているように見受けられる。それにより多くの矛盾が発生し、世界的な人心混乱にまで発展しているのではないかと考えられる。世の中を見ていただきたい。モラルは低下の一途をたどり凶悪犯罪は増える一方であり、またそれらは日増しに加速度を上げているようにも感じられる。このままではいずれ価値観は崩壊してしまい、そうなってしまっては国民、ひいては人類共通の基準など在り得ろうはずもなく、全ては悪循環に陥ってしまうと思わざるを得ない。もう既に人類史上最大の「大混乱期」は我々のすぐ近くまで押し寄せて来ているのである。 一般論的に今の日本に必要なものを考えるとすれば、それは「国家レベルの価値観」の創設であろうか。これは、個々に分散してしまった民族エネルギーの方向性を一点に定め、いずれ訪れるであろう「大混乱期」を乗り切るろうという考え方であろうかと思われる。では昨今言われているように「ナショナリズムの沸騰」にそれを求めれば全ては好転するのだろうか。否、そうではないだろう。それでは時代の逆行でしかなく、また「大混乱期」を乗り切ることはできそうにない。しかし、それ以外に何か在るのかと聞かれれば、現段階では無いとしか言いようがない。 古来、我が日本民族は世界中の様々な異文化を自らのものとし、そこに多様な価値観を見い出してきた。これは島国であるが故の対比的コンプレックスの反作用であろうかと思われる。ここで少し考えてみたい。ということはである、世界的文化伝達は、一度我が日本に持ち込まれ、ここで成熟し、その後西方に広まっているのではないだろうか。つまり、「成熟文化は東方から西方に」と言えるのではないだろうか。そう考えるとするならば、現在の世界的な行き詰まりの原因を、我が国日本の行き詰まりに置き換えることができるのではないだろうか。我々が新たな価値観を見い出せないからこそ、日本を始め世界が混乱しているのではないだろうか。我々の責任は思いのほか重大であると言いたい。 本来、我々日本国民は多様な価値観を受け入れることができるのである。それでこそ本来の使命が果たせるというものであり、現在のように価値観を否定しあう風潮などはもってのほかであり、いかに尊敬に値しないと思われる相手であったとしても吸収すべき点がないわけではなく、それを見い出してこそ本当の意味での「日本人」なのではないだろうか。 我々には一つ恥ずべき悪弊がある。これはどんな民族にも言えることだが、我々においては顕著に表れ出る。それは、「対外的なコンプレックスが存在しなければ進歩を止める」という行動性であり、現在は完全にその段階であろうかと思われる。皮肉にもこれは国家規模のコンプレックスを経済に見い出し、世界で類を見ない高度経済成長を遂げてしまったことによる副作用であると見て間違いないであろう。だが当時はそうするしかなく、またそうすべきであったかと思われる。しかしながら今後も対比的コンプレックスをより誇大化させるであろう現在の経済活動に重点を置き続けるのであれば、いずれ訪れるであろう「大混乱期」を避けられるはずもなく、ついには社会崩壊の憂き目を見てしまうことになるのではないだ ろうか。つまり、我々が経済至上主義を捨てない限り新たな成熟文化は生まれず、逆にいえば、経済に重点を置かなくなった時点で新たな成熟文化の芽が誕生し、人類史上新たな段階を迎えるだろうと言いたいのである。 過去から現在の価値観で以上述べたことを考えた場合、結局は「民族主義」なり、「共産主義」なり、最近流行りの「NGO」的な考えなどにたどり着いてしまい、これでは新たな成熟文化は誕生しそうにない。それがわかっているからこそ、未だに経済の亡霊にしがみついているのが現状ではなかろうかと推測する。 先に「対外的なコンプレックスが存在しなければ進歩を止める」と述べた。これは確定要素だと考えている。要するにそのエネルギー無しでは何も生まれないと考えているわけで、その矛先が肝心なのである。個人においても、またその延長である集団においても過去数千年間それは「外」に向けられていた。その心理の具体的例を挙げると、「豊かになりたい」「負けたくない」「人のためになりたい」「金が欲しい」「安定したい」「尊敬されたい」等、幾らでもある。普通に考えれば何も問題はないのだが、先に述べたように多種多様な価値観の存在する社会においては共通の基準が在り得ないので「外」にそのエネルギーを向かわせた場合、際限のない矛盾が発生してしまう可能性が大なのである。現在の学校教育を考えていただきたい。もう既にその片鱗は見え隠れしており、かなりの矛盾が教育現場という一種、閉鎖的環境下において発生していると見受けられる。その矛盾が具現化したものが、登校拒否や校内暴力、ひいては若年層による凶悪犯罪だと考えられる。将来的に見て、これらが非常に危険な要素を含んでいることは容易に推測できる。つまり我々が心理的に現在とっている「行動性」なり「思考性」のまま多様な価値観の乱立する社会で生きるということは際限のない矛盾を生み出し、いずれ乱立する価値観などは全て崩れ去ってしまい、ついには我々の生活する社会そのものを崩壊させてしまうと言いたいのである。経済云々などと言っている場合ではないのである。 現在、我々はコンプレックスによるエネルギーを「外」に向けている。これは言うなれば対比的、相対的、優劣的といったような思考性に基づく意識であり、相対的思考性を決定付ける心理的最大要因は自己の「対比的コンプレックス」に起因するものではないかと考えている。この心理的作用により過去数千年間人類は進歩し続けてきたとも考えている。今までは何も問題はなく、むしろ歓迎するべきものであったが、現状を考えていただきたい。私的見解では自己の意識である「対比的コンプレックス」が最終局面にまでたどり着いてしまったが為の進歩の停滞ではなかろうかと考えている。経済至上主義なり、帝国主義なりは進歩の途中段階では各々持ち得ている「対比的コンプレックス」が誇大化し、また一本化するこ とにより民族エネルギーを一点に集中させ発展し続けることができるが、停滞期に入った段階でその膨大なエネルギーは一転して数限りない矛盾を生み出すエネルギーに変わってしまうのである。この点を持って時代は「大混乱期」に突入していくだろうという見解に達したのである。 高度情報化時代により、多様な価値観が一人一人に降りかかっている。それらを相対的思考によって認識しようとするから己が混乱するのである。それがひいては集団にまで浸透し、そして価値観が認識の上で崩壊してしまうのである。実際のところ価値観の多様化は避けられることではなく、どうあがいたところでいずれはそうなってしまうであろう。その後、価値観崩壊の憂き目を見るのか、それとも価値観共存という人類の見果てぬ夢である「共存共栄」の第一歩にまで時代を昇華させることができるのかは、現在の我々にこそかかっていると言いたい。 少し話しが脱線してしまうが、大いに関連性があるので「宗教的悟り」についての私的見解を述べる。悟りとは、「己から対比的コンプレックスを完全に取り除き、それにより己を無我の絶対境地にまで高め上げ、あやふやである自己を完全なる自己へと昇華させることができた状態」であろうかと考えている。だが、これは不可能だとも考える。大事なことは、生涯において自己をどこまで高められるか勇気をもって取り組むということではないだろうか。その心理状態を維持し続けることによって、自己の深層心理の中で新たなコンプレックス(相対的、対比的、優劣的ではないもの)が生み出され、それにより現在までの自己を決定付けていた「対比的コンプレックス」は鳴りを潜めることであろう。「個」が「個」で在り続けようとする心の葛藤の中にこそ本来の「個」、つまり本当の意味での「人間」が存在すると考えるのである。しかし面白いではないか。私は実体験に基づく私的行動科学の見地から今回話を進めてきた。だが行き着いた先は仏教の教えと何ら変わりがないようである。過去の偉人が現在の危機的状況についてわかっていたはずはないにもかかわらず、何故こうも結論が似通っているのか不思議でたまらない。やはり自己の意識改革については過去も現在も変わらぬ人類最大の課題なのだろうか・・・。 これからの世を「共存共栄期」にするか、「大混乱期」にするのかは、我々人類一人一人がより一層自己を高めるべく努力するかしないかであるといえよう。依存的、排他的、優劣的、相対的等、こういった感情の基に時代を生きていくのではなく、全て受け入れようとする心構えの基に時代を生きていくことこそが自己をより自己足らしめるのである。人生とは苦しいものなのであり、「安らぎ」や「豊かさ」はその先にこそ存在するものだと我々は認識すべきではないだろうか。本来、「個」は「個」でしかないのであり、その「個」の在り方いかんによって社会全体の在り方も自然に決定付けられるということを我々は再認識しなければならない。人類史上最大の転換期はもう既に訪れているとは考えられないだろうか。 |
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