第 75 号
“ジョン万ハウス”訪問
 ジョン万次郎は10歳で中浜浦老役、今津嘉平宅の下働きにで、天保12年(1841)、14歳のとき、足摺沖で操業中に10日間の漂流のすえ、鳥島に漂着しわずかな水と海鳥を食べて143日間も生きたえて、米国の捕鯨船に奇跡的に救出され、日本人として初めて米国大陸に上陸した人物である。
 万次郎は「ジョン・マン」という名で可愛がられ、ホイットフィールド船長の厚意で、初等オックスフォ−ド校、中等教育バートレット専門学校で、英語、数学、航海及び造船学などの高等教育を受けた日本人留学生の第一号であった。さらに、3年4ヶ月にわたって世界一周する捕鯨船の副船長として活躍した。

            

 24才の時、日本開国を想い、死を覚悟して鎖国日本に帰る決心をし、ハワイを経て、嘉永4年(1851)琉球に上陸したが、鎖国の掟を破った罪に問われ、長崎奉公所で18回に及ぶ拷問を受け吉田東洋から70日の取り調べを受け。故郷、中の浜に帰り着いたのは嘉永5年、25歳で母と子は12年ぶりに再会をはたした。
 土佐藩より「他国往来は勿論、海上業等被差留之」と申し渡され、故郷から外へ出ることを禁じられてしまった。しかし、土佐藩主山内容堂から召し出され藩校の教授となり、アメリカの文化、世界の海での冒険を語り、坂本龍馬らに大きな影響を与えた。
 嘉永6年(1853)、米国のペリー提督が日本に開国を要求するや、幕府は、急きょ万次郎に出頭を命じ、幕府直参として、国家の難事に尽くすことになる。万次郎の説得に、幕府は二百余年にわたる祖法を破り開国に踏みきることになった。万次郎の「日米和親条約」の締結に至るまでの功績は計り知れないものである。 10年ぶりにサンフランシスコ港往復の航海を終え、帰国した万次郎は、政治の前面に出ることはなく、日本の夜明けに必要な人間の教育開成学校(現東京大学)に熱中した。
 明治31年(1898)11月12日、万次郎は71歳で静かに生涯を終えた。

 以上が万次郎のあらましの生涯ですが、今、情報が出回りアメリカの国が理解出来るが、全く知らない国で、まして言葉も通じない国で今の日本に14,5歳で辛抱して、努力をする子供達が何人ぐらいいるだろうか?

 現代人は情報で満足し、行動を起こし、体験する事を忘れているのではないでしょうか、辛抱、努力、頑張りを子供達に教えていく事が大事な教育ではないか!!
平成17年12月10日
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