第 76 号 |
「幕末に生きし大道の人」中岡慎太郎から学ぶ |
四国政経塾事務局に勤務させて頂く事になって初めての偉人館巡り。平成18年1月21日(土)に高知県安芸郡北川村にある中岡慎太郎館を訪ねました。出発前に塾生が相次ぎ風邪等の病気により欠席するなか、一旦は行き先を変更することも検討されていましたが、以前から塾頭より聞いていた中岡慎太郎の行動力を、是非自分の目でも見てみたいと思っていたこともあり、参加者の塾生の方々には再度の訪問になり申し訳なく思っております。 中岡慎太郎の功績については、以前の塾生の記事を読んでいただければ、詳しく理解できると思いますので、功績の記述は省略させていただきますが、私が感じた中岡慎太郎像を記録させて頂きます。 塾を出発し車で約2時間の道程。高知自動車道の南国インターを降りて、国道55号線を東へと走らせ海岸線を進み安芸市を越え、奈半利から国道493号線を山中へと向かったところに慎太郎館があります。私は四国中央市新宮町に住んでいますので、山中の風景には慣れていますが、明治維新の先駆けを築いたとてつもない人物が育った環境とは思えない風景が続く中に、中岡慎太郎の生家があることに先ず驚きを感じました。藩政時代の北川郷は世帯戸数が649戸、人口が2,769人であり、ささやかな農業で生活していたそうです。この人口規模もまた周囲を山々に囲まれた風景も、実に私の住んでいる新宮町(合併前の新宮村)と非常に酷似していることに、国家の大事に生活の環境など関係しないのだと思い知らされました。 慎太郎館の中には、慎太郎が国事のために行動した史跡を示す日本地図があります。一日平均90キロもの移動を行っています。当時は現在のように交通手段も道路整備もされていない山中を、ただひたすら志をもって歩き続けていたのでしょう。ただ歩くだけでも大変なうえに、同士を募り事にあたる説得を繰り返した日々を想像するに、健脚だけでは成しえない、正に大道を生き抜いた人であったことがよく理解出来ます。3歳から学問を4歳にして儒学を学び、14歳には島村塾の代講を勤めるなど、幼いころより常人では成しえない才能を身に付けたうえに、ただ頭脳明晰だけでなく人を思いやる心も兼ね備えた人物であったことが、強く印象に残ります。 会館の下に中岡慎太郎の生家があります。慎太郎は大庄屋に生まれていますが、大庄屋の家とは言っても今の家からすれば決して大きいとは言えない住まいです。中に入り塾頭と中庭を望み、改めてこの山中で国家を動かす志が芽生えたのかと思いを巡らせました。山の向こうに日本の国家を思う気持ちが込上げたのには、学問や教育が大きく影響したのでしょうが、庄屋の人生を送る選択もあった中で、国家の再建の渦に巻き込まれながらも、自ら茨の道を突き進んだ行動力に改めて感銘を覚えました。 中岡慎太郎ほどの偉業を成しえることは出来ないまでも、自分の進むべき道に向かうとき、この慎太郎の生き方は正にお手本であると思います。政経塾と出会う以前は新宮という小さな地域の枠の中で物事を考え、行動範囲も考え方も小さな枠の中のみであったと思います。しかし、今では情報はインターネットで、また交通手段などは随分整備されましたから、我々の行動範囲は日本にとどまることなく、もっと大きな視野に立って考えなければならないと改めて考えさせられました。 四国政経塾の活動も先ずは行動することからを基本理念としており、この行動なくしては何事も始まらないのです。失敗を恐れず行動の中から学び、努力することの大切さを学ぶことが重要なのです。「地域から日本を変える」という四国政経塾の壮大なテーマは、決して空想や理論だけでないことを確信し、自分自身もグローバルな視点に立って、もう一度自分の目標を見つめ直さなければと痛感しました。中岡慎太郎に幕末に生きた本当の志士の姿を見たように思います。我々の活動の原点を垣間見た有意義な研修でした。 |
平成18年1月21日 |
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