第 96 号
ドイツ館・バルトの楽園
 7月22日(土)、徳島県鳴門市にある「ドイツ館」と「バルトの楽園」の映画ロケ村を訪問しました。ドイツ館は俘虜であるドイツ兵と地域の人々を紹介し、バルトの楽園・映画ロケ村では、ロケ村ですので当時の坂東俘虜収容所を再現し映画で使われたセットを一般公開されています。

 1914年・第一次世界大戦で日本軍は、ドイツの極東根拠地・青島にいたドイツ軍を攻撃し、この時敗れたドイツ兵4,700人が捕虜として送還され、日本各地にある収容所に収められる事になり、このうち四国の徳島・丸亀・松山にいた約千人が、大正6(1917)年〜9(1920)年までの3年間を、徳島の板東俘虜収容所で過ごすことになりました。坂東俘虜収容所はその当時所長を務めていた『松江豊寿』氏がいました。

 『松江豊寿』氏とは、旧会津藩士松江久平の長男として明治5年6月に若松の馬場下五ノ町に生れ、斗南藩移住後、軍人を志して陸軍士官学校に入学、各地を転戦し、大正6年に陸軍大佐、板東俘虜収容所の所長となりました。大正11年より9代若松市長となり、上水道計画を決議。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力、弟松江春次の南洋開発にも協力しましたが、第二次世界大戦後病没しました。

 そもそも、私たちが感じる俘虜収容所とは人として扱われない所と思いますが、坂東俘虜収容所は違っていた。松江氏は、第一次世界大戦で収容されたドイツ兵捕虜を、陸軍上層部の意志に背いてまでも、捕虜は愛国者であって犯罪者ではない、人道に扱うべき、捕虜達の人権を遵守すべきと主張し住民と交流させ、この収容所では、松江豊寿所長をはじめ所員・地域の住民が、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめ、自由で快適な収容所生活を楽しむことができた。俘虜たちは、収容所内にレストラン・印刷所・図書館・音楽室と、80軒余りの施設を造り、また学習・スポーツ・演劇・講演・音楽など・・・。いろんな施設を造り俘虜たちは、新聞を印刷する者やパンを焼く者・楽器を演奏する者、またビールを飲む事も許されていました。収容所生活の中、地域の人々との交流では、俘虜製作展覧会や各地での演劇や演奏活動、ドイツ文化を広く地域の人に紹介し、町村で牛乳やバターやパンなどが作られ、これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域に受け入れられ、言語や習慣など文化の異なる地域の人々の暖かさに、収容所生活の中で俘虜たちは生きる喜びを感じていたようです。そういった収容所生活の中、俘虜たちは、松江氏や所員・地域住民に感謝を込めて、日本で初めてベートーベン『交響曲第九番歓喜の歌』を演奏され、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行なっていました。
 そういった様々な出来事がドイツ館では、当時のドイツ兵俘虜たちの収容所生活を再現しています。

 ドイツ館を後にし、「バルトの楽園」の映画ロケ村へ行きました、ドイツ館で板東俘虜収容所で過ごす俘虜たちの生活を学んだ後、当時の収容所を再現し建てられた収容所の建物の中にいると隣に俘虜たちがいる感覚で、私はまだ映画を観ていませんが、ドイツ館・ロケ村で自分なりに感じ・学んだ事がありますが、当時を再現された映画を観て、さらに『松江豊寿』氏の、「陸軍の上層部の意志に背いてまでも、捕虜は愛国者であって犯罪者ではない、人道に扱うべき、捕虜達の人権を遵守すべき」という、「人」という事、また当時の俘虜収容所の人と地域の人々との交流、ドイツ館・映画ロケ村で観たものより、当時の出来事がもっと知れる、是非映画を観ようと思います。

 今回、最も印象に残っている事は、所長であった、「松江豊寿」の人格です。松江氏は人を想う気持ちから、陸軍上層部の意志に背いてまでも、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめ、自由で快適な収容所生活を楽しむことができた。人を想わず、自分の立場・自分さえ良ければ周りの事は考えられない人物だったらと考えた時、当時の地域の人々と俘虜たちの関係や収容所での生活はどうなっていたのか・・・・。収容所生活の中で俘虜たちは生きる喜びを感じ、地域の人々の暖かさに触れる事が出来たのは、松江氏が、人を想う気持ちから、所員・地域の住民を変えた、松江豊寿氏の人格だと思います。人と考えた時、やはり塾で学んでいる、自分が変われば周りが変わり、地域が変わる、今回の訪問で、自分自身を考えた時、人に対して自分という者がどうだろうか?損得を考えず、人を想う心を持っているだろうか?そう考えてみると自分自身がもっともっと変わらなければならないと考えさせられました。
平成18年7月22日
目次へ