韓国・機会の学塾 来塾
“久しぶりの再会”

 624日~26日、姉妹塾である、韓国・機会の学塾の方々が来塾致しました。学塾の方々とは、2年半振りの再会です。以前は年間2~多い年では4回程、学塾の方に訪問していましたが、当塾・大和田塾頭の体調がすぐれない事と政経塾の行事などの都合によりなかなか学塾に訪問する事が出来ずにいました。そこで、学塾の理事長 先生が、学塾生に呼びかけ大和田塾頭のお見舞いに来て下さるという事になり、今回の来塾が決まりました。何度も韓国へ訪問していたためなのか、振りかえれば2年半経っていた事に驚いた事と、何よりありがたいと思ったことは、何度か学塾に訪問しようと計画は立てていたものの、政経塾の行事が重なったことはともかく、塾頭の体調が悪く長時間掛けての移動できなかった為に、韓国から塾頭のお見舞いに来るという、劉先生をはじめ学塾の方々の気持ちが嬉しくもあり、また、皆さんの塾頭への情の深さに感謝しています。今回、“塾頭のお見舞い”という来塾ですが、23日の滞在でした。
 塾頭と共に、3日間のスケジュールを考えなくてはならなかったのですが、まずスケジュールに関しては、一応 劉先生にどのようなスケジュールにするか聞かなくてはならなかった為、劉先生に質問すると「今回は、塾頭のお見舞いが目的で訪問するからスケジュールなど決めなくていい」という答えが返ってきました。私は正直驚きました。来塾が確かに塾頭のお見舞いとは聞いていたものの、勤勉な劉先生なのでそれなりに来塾した意義のあるスケジュールを求めてくるのではないのかと思っていました。しかし劉先生の答えが、塾頭の身体の事が心配だから来塾するのだと、私はこの時思ったのが、自分たちは毎日塾頭といるから様子が分かっているが、会えない劉先生や学塾の方々からすると塾頭の様子が分からない為にものすごく心配を掛けていたのだと、その時実感しました。ですが、皆さんにはありがたく感謝の気持ちでいっぱいですが、3日間という日程は、政経塾で過ごすには正直滞在時間がもったいない為、塾頭の身体に負担が掛からない様なスケジュールをと、塾頭と共に考えました。松山到着が夕刻なので、1日目は松山に宿泊する事に、2日目は、伊予かすり会館⇒子規記念博物館⇒四国政経塾 討論会⇒四国中央市泊、3日目は、今治タオル美術館⇒松山空港、というスケジュールです。

 24日、お迎えの為、2時頃塾を出て松山空港へ。空港に着き待っていると学塾の方々が到着され久しぶりの再会です。塾頭と劉先生は満面の笑顔でハグをして挨拶していました。私も、劉先生から「や~桐内、お久しぶりですね~」と、私も塾頭に負けずと、満面の笑顔で挨拶ができました。この日は、松山に宿泊する予定となっており、挨拶を交わしホテルへと向かいました。空港到着がPM 430 だった為、ホテルに到着したのが少し遅くなり、ホテル到着後、夕食に出掛けました。2時間程の食事でしたが、大和田塾頭の身体の話や、学塾・政経塾の話など盛り上がりました。食事が終わりホテルに帰り、1時間程だったと思いますが、ホテルのロビーでまた少し雑談していましたが、劉先生から「疲れるからもう休みなさい」とお声が掛かり、2日目の打合せをし床に付きました。

 25日、この日のスケジュールでは、まず伊予かすり会館だったのですが、劉先生が塾頭の身体が心配なので、伊予かすり会館を止め、子規記念博物館を見学した後、政経塾へ帰り塾で休みましょうと提案され、ホテルを10時に出発、子規記念博物館へ向かいました。子規記念博物館では、通訳がいなかった為、音声ガイドを借り見学しました。劉先生は23度目の見学になりますが、音声ガイドを借りて見学するのは初めてで、音声ガイトを聞きながら、また解説映像なども観ながら見学していました。他の学塾の方々も同じく真剣に館内を見学していました。

 正岡子規は、慶応3917日、現松山市花園町で生まれ、翌年明治元年だから子規の年齢は明治の年号と同じです。子規の本名を常規(つねのり)、幼名は処之助(とこのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めました。父、松山藩士・正岡常尚と、母・八重の間に長男として生まれましたが、子規が5歳の時、父を亡くした為に家督を相続して、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作る等、試作会を開いた。また自由民権運動に触発され、政治家を目指し明治16年に上京し、第一高等中学校、帝国大学哲学科に進学しました。進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科。この頃から「子規」と号し、真剣に文学を志し句作を行います。
 大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で明治25年に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点としました。明治26年に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始。明治27年、夏に日清戦争が勃発すると、翌年、明治284月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたために、同年5月第2軍兵站部軍医部長の森林太郎等に挨拶をして帰国の途に…。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷しまた。喀血したことから“鳴いて血を吐く”と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。明治30年に俳句雑誌“ホトトギス”(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献しました。
 明治28年頃からは、子規の病を大きく進行させ、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断され、以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けますが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになったそうです。歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていましたが、明治32年の夏頃以降は座る事さえ困難になり、その頃から子規は約3年間寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻酔剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続けました。子規は死の2日前まで随筆“病牀六尺”を発表しつづけて、明治35919日に亡くなりました。

 前回、子規記念館を訪れた際、劉先生が俳句を投稿したら見事入選されて、劉先生に記念品が松山市長から届いたそうです。そこで、今回も俳句を投稿できますかと聞かれ、ロビーを見渡すと記入用紙が置かれていた為、投稿できますと答えました。ちょうど、630日必着付で、第51回・子規顕彰“全国 俳句大会”があり、そこで、劉先生他学塾の2名が、俳句を投稿する事になったのですが、俳句を考え書き終え持っていくと、以前はハングル語でも投稿できたのですが、今回は日本語のみという事で投稿できずがっかりでした。私も事前に調べていたらよかったものの、学塾の方々に申し訳ない気持ちで悲しかった…。
 見学を終えて、ちょうど昼時だった為、隣が道後本館ですので道後商店街へ向かいました。商店街を歩きながら食事処を探しているとちょうどお昼時で何処もいっぱいで入れず、ウロウロと歩きましたがなんとか食事にありつき昼食です。注文を終え待っていると、ちょうど1時の坊ちゃんカラクリ時計が動きだすからと、学塾の方々は食事がすんでいたので、からくり時計の事を伝え学塾の方々だけカラクリ時計を見に行きました。私達日本人側は、その時まだ食事が出てきておらず観に行けずに食事をしていました。食事を終え、カフェでコーヒーを飲みながら少しの休憩をとり、3時半頃に塾へ到着。

 4時頃から政経塾と機会の学塾との討論会です。まず、学塾の ジョン フィ スク さんから政経塾の印象について語ってくれました。教室に入ると両塾の足跡が解り、四国政経塾の教室ではなく、学塾の教室に来たのかと思ったそうです。また、学塾との関係を大切にしているのが教室を観て分かります、とジョンさんが言うのも私には分かります。学塾が設立し、学塾1期生から学塾の勉強会に参加し、集合撮影した写真を教室に飾って(全てではないですが)います。また、姉妹結緑書や学塾からの記念品・感謝碑等、沢山ありますが大切に教室で飾っているからだと思います。だから政経塾ではなく学塾の教室と錯覚したのでは…。また、政経塾では掃除について学びますが、ジョンさんが、教室全体が整理整頓できていて素晴らしいと言ってくれました。以前、政経塾20周年の時に来塾さらた学塾の幹事さんが「私は学塾の卒塾生であり幹事として講義室とお手洗い・事務室をよく見た。大和田塾頭様と桐内さんの格別の愛情がにじみ出てくる。感動そのものである」と言ってくれました。塾では「感謝」という事も学びます。人に対する感謝、物に対する感謝、全ての事に感謝を忘れてはならない事。誰でも職場では掃除から一日が始まります。人それぞれ掃除の仕方や考え方は違うと思いますが、塾に来てくれた方が気持ち良く来て、気持ち良く帰って頂きたい。人に褒められて欲しいからではく、また言われるから掃除をするのではありません。まだまだ、人から見れば掃除ができていない所や見落としているかもしれませんが、自分のできる掃除とは、昨日掃除したからまだ綺麗なので今日はしなくていいというのではなく、使われていない机や部屋でも毎朝掃除しています。それが、物に対する感謝であると思っているし、またそれが掃除なのでは……。

 塾での討論会では、3月京都に訪問した際、夕食に焼肉店に入りました。そのお店では従業員の接客がとても良く感心しましたが、そのお店で出されたコップに・ありがとう「感謝の心」・すみません「反省の心」・おかげ様「謙虚な心」・私がします「奉仕の心」・はい「素直な心」という文章が書かれていて、塾で教わっている言葉がコップに書かれていた為、そく塾頭が買い求めました。そのコップを学塾の方々に差し上げ、その言葉について話をしました。通訳は劉先生にお願いしましたが、学塾の方々も真剣に耳を傾け、一つひとつの言葉の意味について学んでいました。討論会の後、劉先生・学塾生から大和田塾頭にお見舞いの言葉・品物、今回来塾出来なかった塾生からの手紙、また塾へのお土産などを頂きました。塾からは、大和田塾頭が子規記念博物館で、聞けば誰でも知っている「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」と書かれているボールペンを買い、来塾した記念に手渡し、私は、上記にも書いていましたが、子規記念館で俳句を投稿できなかったお詫びとして、また記念になればと短冊を買っていて、学塾の方々に今回考えた俳句を短冊に書いて学塾の教室に飾って下さいと渡しました。約2時間半の討論会となりまいたが、夕食の予約時間があるので、ホテルに向かいチェックインをすませ夕食へ出掛けました。夕食は楽しい時間でしたが、学塾のジョンさんが誕生日だという事を聞いていて、事前に花束と誕生ケーキを準備しており、サプライズで誕生日をお祝いさせて頂きました。ジョンさんも思いがけない出来事に驚き、喜んでくれました。

 最終日26日、9時半にホテルへ迎えに行き、再度塾へ寄り40分程、滞在中の反省会をし、今治タオル美術館へ向かいました。道中車の中では、劉先生と会話を楽しみましたが、今回滞在された事で、大和田塾頭の元気な姿を見て安心したのか、大和田塾頭の体調を見守り、今度は是非秋には韓国に来なさいと言われました。今回滞在中ジュンさんが誕生日を迎えたので、私は、秋に行けるのなら大和田塾頭は117日が誕生日なのでその日くらいに学塾に行きますと言ってしまい、劉先生もそれが良いと言って必ず11月に韓国に行ける様に体調を管理して必ず韓国に来なさいと言われました。そんなこんな色々雑談を交わしているとタオル館に着き、タオル美術館は学塾の方はもちろんですが私も初めてです。入口を入ると館内はとても広く正面に受付があったが、そこは受付ではなくタオル製造見学をする受付は4階にあり、まず4階に向かうのですが、同行していた当塾生の松岡さんは何度かタオル館に来た事があると知り、松岡さんに案内してもらう事にしました。4階で受付を済まし、タオル製造工程の最新鋭の高速自動機械による製造の様子が解り、その他企画展やタオルアートコレクション、ムーミンの世界展等が見学できました。学をしていると時間も流れ、お昼が来たので館内にあるレストランで食事を済まし、学塾の方々が買い物をしたい為、少しの買い物時間を設けました。帰り便が530発の為、2時頃タオル美術館を出発し空港へ…。空港へ着くと出発までに時間があり、劉先生が気を遣ってくれて、疲れているから自分たちはいいので早く帰って休みなさいと言ってくれました。ですが私たちは、搭乗手続きが終わるまでしばし待つことにしました。搭乗手続きが終わり、出発ロビーに向かい最後のお別れになり挨拶を交わしましたが、劉先生と道中で約束した、11月に大和田塾頭と共に韓国へ行く約束を再度交わし“韓国で会いましょう”と見送りました。


 今回、学塾の方々の来塾はこれまで来塾して下さった時とは違い、劉先生と大和田塾頭の友情の深さ、そして両塾への思いの深さを実感しました。中では、来塾出来なかった学塾生からのお見舞いの手紙も頂き、学塾の方々に凄く心配を掛けていた事に反省をしなければなりません。劉先生と約束した11月には学塾へ行ける様になんとか大和田塾頭に体調を整えてもらおうと思うのですが、こればかりは医者ではないので見守る事しかできません。ですが私の思いは、秋に学塾へ訪問したい気持ちです。
 最後に、劉先生をはじめ学塾の方々の気持ちがとても嬉しく、お会いできた事に感謝しています。本当に有難う御座いました。
平成28627
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