カンボジア訪問
 日韓共同のボランテアの為、4月16日12時に塾を出発し、高松空港〜羽田空港〜成田空港まで出かけ成田全日空ホテル一泊しましたが、ホテルに着くと雪が出迎えてくれ何とも幻想的な景色に(飛行機、空港、ホテル周りの景色)少し感動致しましたが、翌朝は32度〜39度の国に向かうのに、この温度差に身体がついていくのか如何か、出発前から不安が頭をかすめました。
 翌朝、先ず、成田発11時の飛行機で、ハノイ経由シェムリアップでカンボジアに入りました、ホテルに着いたのが夜の9時半位でした、シャワーを浴び、韓国、機会の学塾の人達がホテルに着くのが11時位と聞いていたので、ホテルのガーデンで無事着いたことをお祝いし、塾生同士、ビールで乾杯し、そのまま、機会の学塾の人達の来るのを待ちました、彼達は予定より少し送れ12時ごろ着き、お互い無事に着いた事を確認し床に就きました。

 18日の朝8時半ごろからハーモニーファームに向かいました。
 ハーモニーファームはクメール人が管理している、ペンミリア寺の向かいにある施設で孤児院では恵まれていない、家のない、親のいない子供達や若者が住んでいる地域です。
 其処での主な事業は、恵まれていない子供たちの為に安全で家族のような環境を提供すること。無料で英語、クメール語、美術、図工、音楽のレッスンを村とその地方の子供たちに提供すること。環境を守りながら、質のいい食材を有機農法で栽培すること。コミュニティーの必要とされている医療機関、ヘルスケア、伝統的な音楽や文化活動をサポートすること。健康や環境に優しい生活や農作業をコミュニテ
ィーの人が自分自身の力で出来るようサポートすること。我々が訪れた建物は28才のオーストラリア女性のマリが管理している施設でした、施設の周りを見て回ると、多少の農作物と家畜(豚)水瓶が、4ヶおいてありました、中には汚れた水が貯められていました、建物の中は教室が2棟と寝室が人棟、寝室に一人の少年が寝ているので、彼は何故寝ているか聞くとマラリヤにかかり、病院にも行けず、寝ていると聞きました、何とかしてあげたいが、なんともならないのが彼たちの現状ですと聞いたとき(貧困→不潔→ 栄養不足→病気→死)なんともしがたい現状が其処にありました。
 又、一方では教室の前の蓮の池で泳ぎ、その泥水をペットボトルに汲み飲んでいる、子供たち、見ているだけで、身体を壊さなければ良いのにと、祈るだけしかできない自分、情けなさがこみ上げきました。

        

 ハーモニーファームから少し離れた所に立てかけの家が2件在り、一軒は骨組みだけの家で完成までにまだ時間がかかりそうでした、もう一軒は屋根も出来、壁の一部だけが土壁が塗られていましたが、一部は竹がむき出しのままでしたので、YOO理事の支持で、皆で2班に別れ、1斑は残りの土壁を塗るため、土とワラを足でこねて、土壁の泥を作り、時間の許す限り、皆で土壁を竹に塗っていきました、後の1班は道作にクワを担ぎただひたすら道を直しました、作業をしていると驚くべき事が起こりました。オーストラリアとギリシャから来た若いボランティアメンバーが私達の作業を助けてくれました、おかげ私達の作業もはかどり思って以上に作業を終えることができました。韓国、日本、豪州、国を越えて、貧困な場所を訪問し難しいボランティア活動は人間としての使命感を感じる時間でした。

        

 後、少しで完成までこぎつけましたが、次の行事の為、断念し作業を終えてシェムリアップにってホテルで休んだ後、ボランティアを求める旅行者にボランティアをする所を紹介するコンサト(Concert)(創立者のミハイル ホルトンニム氏)を訪問しました。
 ここはシェムリアプにある300個を越えるNGO団体中から信用出来る団体を選して旅行者がボランティアをして寄付金が無駄に使われないように助言する所でした。
 その後パブ通り寺院に出かけ、其処で夕食を済ませ、その日はホテルに帰り、暑さと、疲れで、すぐに寝てしまいました。

 19日はストリートチルドレンへの贈り物ため緑のヤモリセンターを訪問、その後、水フィルター企画訪問後、マイケル訪問後、平和カフェで昼食、平和カフェではオーストラリア人が接待してくださり、楽しい時間を過ごした後、夕日の鑑賞と夕食を食べるために海のような湖トゥルレンシャプに移動しました、湖には水上の家が沢山有り、どの家もけして清潔とゆうにはほど遠いものでした、此処でも船の手助けをしているのが14歳の少年でした、ハーモニーファームでも手伝ってくれたのは、10才前後の少年少女達で、船に近き物の売りをしているのは、やっぱり、10才前後の少年少女達です、彼たちの顔を見ると目に涙を浮かべ、生活がかかっているのが伺えるが、一人買うと後が大変なので買ってやりたい気持ちを抑え無視をし、船上からの夕日を眺めながら夕食を堪能し、湖を下り、町の商店街の夜市を楽しみました。

        

        

 20日朝5時よりアンコールワットの日の出を見るためホテルを出発し、アンコールワットに着くと拝観料を払うと、個人の写真が付いたパスポートみたいな物を貰い、常に携帯してくれとの事でした、朝日が出るころ、残念ながらうす曇がかかり、綺麗な豪華で伝統のある寺院を照らしてくれませんでした、でも、私には感動的で、寺院を見ているだけで、アンコールワットの歴史が流れて行く様子が見えたように思われました、寺院の中を見学致しましたが、世界遺産だけあ
って、見ていくだけで、寺院の説明は必要無く、歴史を感じる建物でした。

 アンコールワットの歴史
『12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として三十年余の月を費やし建立される。1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マグダレーナが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年(寛永9年)日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていた事が伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介によって西欧と世界に広く知らされた。1887年、カンボジアが仏領インドシナとされ、1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行った。1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたという。1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコールワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言って良く、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた。(現在は修復されている)だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。

 カンボジア国旗
 内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。参道の石組みの修復は日本人の石工が指導しており、その様子はNHK「プロジェクトX」で取り上げられた』

 見学の途中朝食を済まし残りの寺院の見学に向かい、タ・プローム及びプリア・カン見学3時半頃に見学を終わり、寺院の木陰で、今回のボランテアに付いて一人ひとり反省並びに感想を述べました、その後、韓食レストランで昼食を済ましホテルに帰り、シャワーを浴びて1時間ほど休憩をし、シェムリアップ空港に向かいました、此処で韓国、機会の学塾の人達と別れ惜しみ、我々はシェムリアップ発20日20時55分 → ハノイ → 成田 → 羽田 → 高松 → 政経塾着21日14時45分、随分長旅で有ったが、カンボジアの人達の生活環境から比べると、有り難いことである(体力さえ有れば何とかなる)
 只、今回の旅行の感想は、我々のカンボジアで行ったボランテアは此れで良かったのか?


 もっと他にしなければ成らない事が沢山有るのではないだろうか?
 学校作りも大事だけど、折角学校を作っても、其処の学校に通える子供たちはどの位いるのだろうか?
 現に観光地で沢山の子供達がカード、腕輪等を持って、観光客に売
って回っている彼達は学校よりも生活が一番なのではないだろうか?
 我々の感覚で学校を作るのでなく(学校作りも大事)、本当にカンボジアの子供達が勉学に励める為の環境作りが出来て、生活の心配なく学校に行ける様な生活が出来様でなければいけないのでは、先ずは大人達が働く環作りをしていかなければ、何時までもボランテアを行う人達も子供に目が行き、大きな意味の生活環境を如何に起こして行くか考えなければ、カンボジアは今のまま、何年も成長しないのではないだろうか?
 たしかにたった一度の訪問では奥深く見ることが出来ないが、間違いなく言えることはカンボジアの生活環境は想像以上でした、けど、此れを外国のボランテアの人々が直すのでなく、カンボジアの人々が頑張って直しいく努力が必要ではないでしょうか、カンボジア人が救いを求め、それに応じたボランテア活動がベストではないでしょうか?

 
次回カンボジアに行く機会が有れば、もう少し大きい視野で検証してみたいものです。

 韓国、機会の学塾の皆さん、オーストラリア人の現地で頑張っている皆さん、そしてカンボジアの皆さん大変お世話に成りました、多分、私にとって一生忘れられない経験でした。
平成22年4月21日
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